バラッカ少佐(最終階級は中佐)の愛機 スパッドXIII 跳ね馬の大きなデザインが特徴的
今日はうんちくになります。第一次世界大戦のイタリアの撃墜王は、フランチェスコ・バラッカ(34機撃墜。最終階級は中佐)という人ですが、この人の愛機につけていたパーソナルマーク(個人マーク)のデザインが「跳ね馬」というもので、高級車で有名なフェラーリのエンブレムになったという逸話があります。これはフェラーリ公式のサイトでも語られていて有名な話なのでご存知の方も多いかと思います。
しかし、これにまつわるいくつかの伝承が曖昧なものが多く、サイトや書籍でもどれが本当かぱっと見ただけではわかりません。そこで少し自分なりに調べてみました。
こんな話が入り交じっており、どれが本当なのかよくわかりません。この話はブロック・イエイツという人が書いた 「エンツォ・フェラーリ 跳ね馬の肖像 (集英社文庫)」にも出ているようなので、これがサイトのソースかもしれません。
いつもウィキペディアを鵜呑みにしがちでしたので、この際ちょっと調べてみることにします。その前にフランチェスコ・バラッカという人の話の続きを。
フランチェスコ・バラッカは、1888年、イタリア人貴族であるエンリコ・バラッカ伯爵の子息として生まれます。乗馬は貴族のたしなみ、軍人は貴族の努めですので、バラッカもはじめは名誉ある騎兵将校になります。しかし流行にも敏感な貴族ですから、当時の最新鋭の乗り物、注目の飛行機に興味を持ち、さっそく飛行機乗りになりました。このように当時のヨーロッパの飛行機乗りたちは、騎兵隊出身の兵隊が多かったようです。これは、フランスなど、騎兵は偵察、並びに決戦兵科に属していましたので、馬の代わりに空を飛ぶ乗り物で遠くまで早く偵察ができるというのがその理由でもありました。また突撃の主役も馬から戦車に代わりました。
第一次世界大戦は「馬と鉄砲で始まり、戦車と戦闘機で終わった戦争」と言われます。この戦争によって兵器の性能が大きく進歩しました。戦争は命がけですから科学力も飛躍的に進歩させてしまうのですね。
そんなバラッカ少佐ですが、第一次世界大戦では、最初は偵察部隊での任務から戦闘機乗り、指揮官として活躍します。バラッカ少佐の率いる第91飛行隊部隊はエースパイロットがいるエース中隊として有名になっていきます。使用した機体は、最初は複座の偵察機のニューポール10、単座戦闘機に改造したニューポール11、そして本格的戦闘機のスパッドS.VII(スパッド7)、その拡大改良型スパッドS.VⅢ(スパッド8)に乗機していました。有名な跳ね馬のデザインは、5機撃墜した時のニューポール11から使用しています。
食玩ではエフトイズから2008年に「複葉機コレクション」でスパッドS.Ⅶが出ていてそのシークレットがバラッカ少佐機でした。
このバラッカ中佐が最初にいた騎兵隊のエンブレムがそのまま91飛行隊のエンブレムになり、バラッカ中佐の「跳ね馬」として有名になった説ですが、最初の騎兵隊の名称は日本のサイトでは「第11山岳騎兵連隊」ということで知られています。ウィキペディアでもそうなっています。しかし、これは誤りのようで、こんな部隊は当時は存在していなく、現地のランチェスコ・バラッカ博物館にある履歴では、「第2騎兵連隊 ピエモンテ」が正解のようです。うーん、いきなり違う。
→Sito Ufficiale Museo Baracca Francesco
これはピオモンテという地名のPiemonte→Monte=山と誤認、山岳騎兵隊としてしまったようです。もしくは、ピエモンテの人は伝統的に山岳歩兵隊に入る人が多いらしいのでここらへんで混同して間違えたのか?2という数字もローマ数字のⅡを数字の11と間違えたという感じですね。やらかしたのは日本人?
第2騎兵連隊のエンブレムにも跳ね馬が描かれていますね。愛機のエンブレムでは跳ね馬のみを大きく描いていますので、まるごと採用した訳ではないようです。これも同じだとするにはかなり無理がありそう。
←イタリア第2騎兵連隊のエンブレム
ランチェスコ・バラッカ少佐は、6月19日に戦死するまでに最終撃墜数34機を果たし、イタリア空軍最高のエースとなり国民的英雄となりました。
さて次から検証に入ります。
フランチェスコ・バラッカ伯爵(Francesco Baracca, 1888年5月9日 - 1918年6月19日)
続き →「跳ね馬」のイタリア撃墜王とフェラーリとの関係その2
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