今日1月11日は、堀越二郎氏の命日でした(1903年6月22日 - 1982年1月11日)。
1982年にお亡くなりになられたので今年で「三十三回忌」法要になります。一般的には三十三回忌、もしくは五十回忌を最後の年忌にするので、仏様として一区切りの年となりました。
昨年、宮﨑駿の「風立ちぬ」や「永遠のゼロ」などの映画で堀越二郎氏に関係した映画が上映されたり、書籍が出版され大勢の人の目にすることになったのも何か深い縁のようなものを感じます。良い供養になったのではないかとしみじみと思います。
堀越二郎氏の手がけた航空機に関しましては、このブログでも何回も取り上げられておりますので合わせてご覧いただけたら幸いです。
★宮崎駿の「風立ちぬ」(15)
★堀越二郎の挑戦。七試艦戦から烈風まで(6)
零戦があまりにも有名ですが、堀越氏自身は九六式艦戦が一番の自信作だったようで、私もそのように思います。何より零戦のように悲劇的な使われ方もしませんでしたし、栄光のうちに世代交代ができた幸せな飛行機だったと思います。
また、その九六式も零戦も堀越二郎氏自身はあくまで主任設計者であり、名機が誕生したのはチームワークの賜です。堀越氏も著作でその点を強調していますし、人間的なつながりをとても大切にしていていたと思います。
その堀越氏は、42歳のこれからという年で敗戦を迎え、航空機開発を禁止されました。これは技術者にとってはあまりに辛いことであっただろうと思います。
堀越氏は日本が世界戦争に突入することを非常に恐れ、日独伊三国同盟が締結された時に「こんなことをするともう日本は戦争への道をまっしぐらに行くぞ」などと奥さんに語っいたそうですが、それはもしかすると、戦争に負けて自分の好きな仕事を奪われてしまうことを、心のどこかで予感してのことかも知れません。
しかし、堀越氏は戦争を生き延びました。戦後、航空機の開発が再び始まり、初の民間旅客機であるYS-11の設計にも、かつての仲間とともに携わることもできました。
ようやく平和の時代の翼を作ることができたのです。
戦後の日本の姿を見ることができ、子どもたちの成長も見届けることができたその晩年の人生は幸せであったのではないかと思います。
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