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栃木/安塚の戊辰戦役の碑

 

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 以前から気になっていたのですが、栃木市から宇都宮市に向かう途中の道にひっそりと古い石碑が立っています。
 今まで運転しながらチラリと横目で見ていて、「戊辰戦争」の文字が見えていたので、興味があったのですが、いかんせん車を停めるスペースがないので、何年も素通りをしていました。

 今回は、近くに車を停めて撮影してきました。

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 「戊辰戦役の碑」と書かれていました。この地で官軍と幕府軍で激戦があったようです。
 大政奉還を不服とした大鳥圭介は、官軍と戦うべく会津を中心とした奥羽同盟を画策します。
 そこで、幕府軍を引き連れ壬生から宇都宮へ入ろうとしたとしたところ、壬生藩の拒絶にあいました。

 そこで、大鳥官軍はしかたなく、鹿沼から宇都宮に入り、宇都宮城を落とします。
 ここで、新選組で有名な土方歳三たちも宇都宮城陥落に参加しています(近藤勇はこの時は板橋で捕縛中)。
 ここで体制を調えた大鳥幕府軍は、壬生城に集結している官軍との戦いに入ります。
 宇都宮城を出陣した幕府軍と、壬生城を出陣した官軍は、この安塚という地で、姿川を挟み対陣しました。

 明治元年2月21日(1868年4月21日)の夜半から豪雨の中で両軍はついに衝突しました。
 一時は、幕府軍が優勢でしたが、官軍の援軍が到着してからは逆転、幕府軍は宇都宮城へ潰走します。

 この戦いに敗れた幕府軍は、再び宇都宮城で官軍と戦いますがここでも敗退し、官軍と幕府軍の攻防の舞台は日光に移ることになります。
 土方歳三はこの時足を負傷し、一足先に会津へ護送されることとなりました。
 会津では約3ヶ月間の療養生活を送ることになるのですが、この間に旧友、近藤勇の死を聞き、その墓を会津若松の天寧寺に建てたと言われています。

  壬生の戦いを中心とした地図はこんな感じです。壬生の戦いは、幕府軍の居城であった宇都宮城と、官軍の居城であった壬生城のちょうど中間の位置でした。

石碑の場所と宇都宮城の関係図。
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 石碑はこの時、戦士した幕府軍34名の霊を弔うために明治13年に建立されました。
 石碑の後ろには姿川と田園が広がります。当時の激戦はここから見える場所で行われたのでしょうか。

 

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石碑は2つ。文字はほとんど風化してしまって見ることができません。

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 明治13年建立ですと、130年あまり経過していますが、風化が激しい感じですね。

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 壬生町は、京都の「壬生の狼」と言われていた新選組と、その地名から、なんか関係があるのだろうかと、興味を持っていたのですが、名前自体には関連性はないそうです。

 新撰組ファンにとっては縁の地だと思われがちですが、新撰組にまつわるものは何も無いそうで・・・。

 ちなみにAKBの大島優子が在校していた壬生高校はこの近くです(笑)。

 こうやってひとつの石碑から色々と調べてみるのも面白いものです。

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