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352機撃墜の世界最強のエース、エーリッヒ・ハルトマン

 この冬に発売予定のハセガワ1/48スケール「撃墜王 蒼空の7人」に登場するエースについて機体と共に記事をアップしてきましたが、

 いよいよ今回が最終回。最後は史上最高の撃墜王、エーリッヒ・ハルトマンです。

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機首に描かれた黒いチューリップ ハルトマンの乗機 Bf109G-6


仲間からは”ブービ(坊や)”、ソ連からは”黒い悪魔”といわれたブロンドの騎士

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 エーリヒ・アルフレート・ハルトマンErich Alfred "Bubi" Hartmann, 1922年4月19日 - 1993年9月20日)はドイツ空軍のエース・パイロットであり、空中戦での撃墜機数352機は戦史上最多です。今後もこの記録は塗り替えられることは決してないであろう、 人類の歴史に残る撃墜王です。

 その戦果はほとんどが独ソ戦においてのものであり、他のエースと比べ異動はほとんどなく、ドイツ空軍最強と言われたJG52に所属、ソ連からは”黒い悪魔”と呼ばれ恐れられていました。
 高速戦闘機、Bf109の特性を最大限に活かした、一撃離脱戦法で撃墜スコアを重ね、1944年8月25日に前人未踏の300機撃墜を達成しました。
 総出撃回数1405回、うち825回の戦闘において最終撃墜数352機、被撃墜16回の記録を残しています。また一度も僚友を戦死させず(僚機の撃墜は1度確認されているが、搭乗員は無事生還している)、自身も一度も負傷したことはありませんでした。
 敗戦後は、ソ連での抑留を経て、1956年に西ドイツ空軍に入隊し現役復帰。1970年に大佐で退役しました。

 下のグラフはハルトマンの撃墜数を時系列で示したものです(クリックで拡大)。配属から半年で10機にも満たないハルトマンは、6月以降急激にスコアを伸ばしていきます。
 騎士鉄十字章を授与されるこの頃のハルトマンの乗機には黒いチューリップの花弁が描かれていたのですが、ソ連空軍側から「南部の黒い悪魔」として恐れられ、ソ連パイロット
は「黒い悪魔」機を見ると逃げてしまい、彼と一緒に飛ぶ4機編隊の撃墜成績が全般的に悪化し、戦果を上げるのに逆効果であることが分かります。
 そこで、ハルトマンは黒いチューリップを消したのですが、するとまた、隊全体の撃墜数が上昇し始めました。
 エース機はあまり目立つマーキングも考えものなのです。

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◆撃墜記録を驚異的に伸ばした「一撃離脱戦法」

 
この驚異的スコアをあげるきっかけは、ハルトマンが最初の撃墜を記録した時のことでした。撃墜したのはいいけれども、その破片を受け自らも墜落。その後病気になり入院というときです。この間に彼は効率的で自分にふさわしい戦闘法を研究します。
 小隊長のロスマン曹長からは、格闘戦は不要であり、僚機を絶対に見捨てないことを学び、次のクルピンスキ中隊長からは、敵機に確実に弾を当てる為には近接射撃を行うことを学んだのです。
 そして、ベテランのエースパイロットたちの僚機を務めながら、「観察―決定―攻撃―離脱または小休止“コーヒー・ブレーク”」という、独自の4段階戦闘法を確立しました。
 その具体的な戦法は、敵を見つけたら不意討ちが可能かを見極めた上で攻撃、直ちに離脱、攻撃前に敵に発見されたら“コーヒー・ブレーク”待機姿勢をとり、敵機と離れるという戦法です。

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 日本機が得意とする格闘戦(ドックファイト)は不要なものとして完全に回避しました。格闘戦は、操縦練度が要求されることと、やはり死傷率が高いのです。ハルトマンは、戦果よりも損失を抑えることが相対的勝利として重要であり、僚機を失うことは絶対的敗北であるとし、部下の指導でもそれを常に徹底させるのです。
 事実上ハルトマンは、僚機を失うことなく、妻のウルスラへの手紙の中で「自分は歴代最高の撃墜数よりも、一度も僚機を失わなかったことの方を誇りに思っている」と語っています。
 このようにして、ハルトマンは、自らもスコアをあげるのみならず、部下たちにも戦法を施し、”生きのびること、敵機を確実に撃墜していくこと”を徹底させていきます。


◆戦後も戦い続けた孤独のエース

 ソ連占領地内で戦争終結を迎えたハルトマン少佐でしたが、アメリカ軍に投降したものの、戦勝国間の取り決めにより5月24日にソ連へ引き渡され、ハルトマンは戦争犯罪人として25年の重労働の判決を受けてしまいます。
 ソ連の虚偽の犯罪自白書類へのサインの強制、接収されたMe262に対する情報提供など、ハルトマン本人は終始断固として拒否し、NKVDから様々な圧迫、脅迫を受け続けました。その抑留生活は西ドイツが働きかけて開放されるまで実に10年にも及びました。戦争は終結しているのにハルトマンは地上にて戦い続けたのです。

 開放されて西ドイツに帰国後は、再結成されたドイツ連邦空軍に入隊してジェット戦闘機のパイロットとなります。かつての盟友、ギュンター・ラル(275機撃墜)らと共にアメリカ空軍で研修を受け、帰国後に戦闘爆撃航空団の指揮官を命じられます。
 しかし、自分には戦闘機しかないと受託を拒否し、暫定的に1958年春にオルテンブルクの戦闘機パイロット学校の副校長に就任。同年6月に空軍部隊最初のジェット戦闘機部隊、第71戦闘航空団「リヒトホーフェン」の戦闘航空団司令に就任しました。戦闘機乗りは最後まで戦闘機乗りなのですね。

 1960年には中佐、1967年には大佐に昇進しましたが、ドイツ空軍がF-104を採用することに強く反対。「まずはF-100等でアフターバーナー等の先進技術を熟訓練した方が良い」との批判を行ったことなどが空軍上層部の不興を買い、1970年9月30日、48歳の若さで退役することになります(退役時に少将に名誉昇進)。
 このF-104の批判ですが、導入後、事故が多発し、未亡人製造機と揶揄されるほどの事態になり、ハルトマンの具申は正しかったことを証明することになります。

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当時は、最後の有人戦闘機とまで言われたF-104


 その後は故郷に住み、民間航空施設や学校などの仕事をし余生を送ることになります。1993年9月20日、死去。享年71歳でした。

◆ドイツのエースパイロットたち

 ハルトマンは、初陣以来、2年半強の期間にハルトマンは1405回出撃し、うち825回の空戦機会において352機を撃墜(被撃墜は16回)しました。300機超えは、もう一人のバルクホルンと2人だけですが、200機超えになると14人、100機超えのエースはなんと106人にもなります。
 連合国最強のエースは、62機のソ連のイヴァーン・コジェドゥーブですが、それでもドイツ空軍のなかでの序列はわずか198番目のランクです。

 どれだけの最強揃いなのか。あまりにかけ離れた数値なので、当初は連合国側は信じられなかったそうですが、逆にドイツの方が判定基準が厳しく、僚機の証言、地上での目撃者など事細かに調査した後に撃墜を認定したため、戦後は疑いの目で見られていたエースたちの戦果は、このような調査結果を知った連合国側からも認められています。

 ハルトマンの352機の記録も、撃墜日の時間、相手の機種、場所の詳細などの記録が全部残っています。→http://www.luftwaffe.cz/hartmann.html

関連記事
→本日はドイツのエース、ゲハルト・バルクホルンの命日です。 
(もう一人の300機超えエースバルクホルンの記事です)

→ドイツ空軍最強の部隊JG52について調べてみた

(ハルトマンが所属したエースパイロットたちの部隊)



ハセガワ1/48スケール「撃墜王 蒼空の7人」

 キットでは、JG52第四中隊長時代の通称「白の1」Bf109G-14と、第9中隊時代の「黄1」のG-6の2機のデカールが選択できます。


1/48スケール7機セット”撃墜王-蒼空の7人-”
現在のところ最安店は楽天市場のあみあみさんです。


1/48 撃墜王-蒼空の7人- (W.W.2 世界のエース7機セット)
プラモデル[ハセガワ]《12月予約※暫定》
 
以上、長きにわたって全8回でお送りしました。世界のトップエースパイロットたちの記事でした。

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