キットの発売にあわせて、8人のエースパイロットたちを調べて記事にしてきましたが、最後にまとめみたいなものを。
◆エースとは
第一次世界大戦では、航空機が初めて戦争で使われるようになり、戦闘機の成果として10機以上を撃墜した者をエースと呼ぶようになりました。後にエースの資格は5機以上となります。
第一次世界大戦では、ドイツのマンフレート・フォン・リヒトホーフェン(左人物)が80機撃墜でトップ・エースとなります。
この機体は赤く塗られていたことから「レッドバロン(赤い男爵)」とも呼ばれ、ガンダムのシャアのモデルとも言われていますね。
第二次世界大戦でも、この5機以上撃墜がエースの条件となりますが、各国によって異なるカウント方法でした。それでも、一番判定が厳しいとされるドイツがトップエースたち上位を独占しているですから、ドイツという国は優秀なパイロットが多くまた、過酷な条件で戦ったのが分かります。
◆エースの定義
エースを最初に定義したのはWWⅠ(第一次世界大戦)のフランスです。10機以上撃墜者をエースの資格と定義し、同じ連合国のイギリスや、対戦相手のドイツも同様に10機以上撃墜者をエースとしました。しかし大戦が進むにつれ、終盤の1917年に参戦したアメリカは戦闘が短期間であったことを考慮し、5機以上撃墜者をエースの資格と定義します。WWⅠでは38名のエースが生まれました。
WWⅡ(第二次世界大戦)が始まっても各国は、5機以上をエースの定義としていましたが、各国によりカウント事情は異なります。また、アメリカ等人材などに余力のある国は、一定の戦務につけば国内に帰還できることにより、個人の撃墜戦果はあがらない場合もありました。
◆第二次世界大戦時のエースたち。
第二次世界大戦は先の大戦より航空機も兵器として発達し、製造規模も拡大していきましたので、エースの数も多く輩出することになります。
5機以上撃墜のエースは432名生まれまています。
トップはもちろん、ドイツ空軍で、208名と最多で、半分近くを占めています。第2位が101名の日本です。第3位がイギリスで28名です。過酷な条件で戦ったことでエースが数多く生まれる結果につながりました。特筆すべきはやはりドイツで、300機超えのスーパーエースが2名。200機超えが15名。100機超えが107名です。他国では94機のフィンランド空軍のエイノ・イルマリ・ユーティライネンがドイツ空軍以外のトップエースですから、ドイツ空軍は他国の追従を許さない多さです。
これは、初期のソ連空軍のパイロットの練度と航空機の性能が低かったことが原因に挙げられております。しかし、戦争中期以降は、ドイツ機に匹敵する性能の飛行機が出てきましたし、パイロットたちの練度も上がってきています。
また、戦場が大陸であり、充分な防弾装備を備えたBf109やFw190がパイロットたちの生存率を高めました。5回、6回の被撃墜は当たり前、ハルトマンでさえ、16回撃墜されており、2位のバルクホルンも9回撃墜されています。
これが日本の戦闘機や太平洋の戦場であれば帰還できずに戦死していたことでしょう。
◆エースになるためには
充分な訓練。
エースになるためには飛行機乗りとしての充分な訓練がどうしても必要です。エース・パイロットたちの経歴を見ると、戦争前に飛行機の教官として充分な操縦経験があったとか、個人的に飛行時間が相当ある人たちがエース・パイロットになっています。
坂井三郎氏によると操縦時間が700〜800時間で戦闘機操縦法ができ、1,000時間でベテランの域に入り、このクラスからエースが生まれると語っています。
ちなみに日本の昭和19年の操縦士は100時間あるかないかのレベルです。
しかし、格闘戦を重視しない海外の場合ですと、一人前のパイロットになれるのにアメリカでは少なくても150時間、イギリス空軍でも200時間、ドイツ軍は250時間と様々です。
日本陸海軍の航空部隊は機種によって300時間以上養成のための時間を要しました。
ドイツでは1942年の補充兵であったエーリッヒ・ハルトマン以降の補充兵の中からは、エースは生まれておりません。彼の年代がエースの条件としての操縦時間が間に合った最後の世代なのでしょう。
まず生きのびることを優先すること。
空戦でやられてしまうほとんどは新米パイロットだそうです。撃墜することよりも、初戦からまずは生きのびることが新米パイロットに課せられた重大な使命といえそうです。
ちなみにハルトマンは、初陣では友軍機を敵機と間違え、燃料切れになるまで逃げたり、初撃墜の日もその破片に自機を壊し不時着しているという失態を犯しています。バルクホルンも初撃墜までかなりの時間を有しました。
戦場で生きのびることで、訓練とは違う貴重な飛行時間を費やすことがエースの条件を満たしていくことになるのだと思います。
原理・原則を徹底すること
第一次世界大戦のエース、オズワルド・ベルケが遺した「ベルケの格言」が語り継がれ、そのルールを守った者だけがエースパイロットとなっています。
ベルケの格言は以下の通りです。
1. あらゆる好機を利用せよ
2. 後方から攻撃せよ
3. 集団で攻撃せよ
4. 一度攻撃を始めたら途中でやめるな
5. 敵の罠にひっかかるな
6. 降下攻撃されても機首を敵に向けろ
7. 敵の姿を見失うな
8. 近距離から発射せよ
この格言は第二次世界大戦に受け継がれ、戦後もアメリカのトップガンでその教えを叩き込んでいるということです。
必勝の戦略を構築したエースは強くなる。
自分が乗る機体の特性を最大限に活かすということもエースの条件であるといえます。格闘戦が強い機体なら、それを最大限に活かし、いかに敵機を自分の得意なフィールドに誘い込むかが勝利の鍵になりますし、Bf109などの高速一撃離脱に特化した戦闘機であるなら、その特性を最大限に活かした戦闘方法を確立することが必勝の戦略になります。
ハルトマンもそうですが、エースと言われるパイロットたちは、機種を変えることを好みませんでした。最強の戦闘部隊と言われるJG52も最初から最後までBf109を使い続けました。
一瞬の油断が命取りになる戦場では、使い慣れた機種を使い続けるのが生き延びる手段であったのかもしれません。
また、ドイツでは早々と戦隊を3機編隊から2機編隊(ロッテ)に編成し直して戦法を変えています。一機が攻撃している間、もう一機は上空を援護するという戦法です。このようにお互いが助けあって戦うという戦法がエースを数多く生み出すことにつながりました。
撃墜王というと、一匹狼的なイメージがあるのですが、「仲間をいかに死なせないで戦うか」ということに尽力しているのが良いですね。一匹狼的なエースパイロットは意外といないものなのです。
ドイツのハルトマンは、「僚機を撃ち落とされたら負けである」と語っています。彼は自分の撃墜数よりも仲間の僚機で一人も死なせなかったことを誇りに思うということを語っています。坂井三郎氏も似たことを語っています。
日本の撃墜王、岩本氏は、こう語っています。
「戦術眼で勝敗が決まる」〜敵がどの位置からあらわれるか、どんな機種があらわれるか、どこまで深追いしてよいか、ということを、指揮官であるものはつかむ必要があるということです。
さらには集団行動では指揮官の能力で全員の運命がきまること。経験の浅い指揮官に率いられた部隊は全滅に近くやられ、逆にすぐれた戦術眼をもった指揮官が率いると、味方の損害は少なく戦果が上がるとのこと。
戦場では過酷な精神下で戦います。神経をすり減らしながらも一日に何回も迎撃に上がる戦いを年中繰り広げるパイロットたち。その強い精神力と体力と知性、冷静な戦術眼、リーダーの素質がエース・パイロットの条件であったといえます。
以上、補足的な意味も込めて、全8回のエース・パイロットたちの紹介に付け加えさせていただきました。
<パイロット列伝>記事
→生涯被弾は1発のみ〜イギリスの撃墜王、ジョニー・ジョンソン
→三度「ソ連邦英雄」の称号を受けた大空の英雄〜ソ連の撃墜王、イ..
→無傷の撃墜王〜フィンランドのトップエース、ユーティライネン
→彼女の写真を愛機につけて戦場へ〜アメリカトップエース、リチャードボング
→無傷の撃墜王〜フィンランドのトップエース、ユーティライネン
→352機撃墜の世界最強のエース、エーリッヒ・ハルトマン
→ついてないカタヤイネン(その1)〜フィンランドのエース
→本日はドイツのエース、ゲハルト・バルクホルンの命日です。
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