時は第一次大戦のヨーロッパ。深紅にひかる複葉機を駆って大空を華麗に舞った無敵の撃墜王がいました。彼の名はマンフレート・アルブレヒト・フォン・リヒトホーフェン。
中世の騎士道精神そのままに、「栄光と名誉を賭けた戦い」は、人々から「レッドバロン」と称賛され、今日に至るまで語り継がれています。
本日4月21日は、この第一次世界大戦のドイツのエースパイロット、リヒトホーフェンの命日なのです。中世の騎士道精神そのものを体現した彼の振る舞いは、敵味方問わず尊敬を受け、没後間もなく100年が経とうとしていても彼の名声と影響力は衰えることを知りません。
日本でも、中古車販売店の「レッドバロン」や、アニメなどにも影響を与えていますね^^「男としてはかくありたい」という想いが未だに人気なのかなぁと思います。
今日は最高の撃墜王として名を残したリヒトホーフェンについて触れてみたいと思います。
貴族として戦争に従事
彼はシュレジエン地方のブレスラウ(現ポーランド共和国ヴロツワフ)にアルブレヒト・リヒトホーフェン男爵とその妻、クニグンデの長男として、1892年5月2日に生まれます。貴族の嗜みである狩猟や乗馬を楽しむ少年時代を送り、早くも11歳で士官候補生となり、槍騎兵として第一次世界大戦に参加します。
貴族というと聞こえはいいですが、その責務というのは、戦争が起きた場合は、真っ先に参加し、一般市民よりも先頭に立って戦うこと。これが貴族の貴族たる所以でした。
英国ではこれを[ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige:仏)]と言って、高貴さは義務を強制するという意味になるのですが、要は財産、権力、社会的地位の保持には必ず責任が伴うことを指しています。
1982年のフォークランド紛争の際も、アンドリュー王子(右人物)がヘリのパイロットとして参戦しましたが、これはあちらでは当たり前のことなのです。
ですので、ひとたび紛争、戦争が起きれば貴族の死傷率は高かったと思います。リヒトホーフェンもリヒトホーフェン家の名誉を守るべく、真っ先に敵陣に入る役割の槍騎兵として参加するのです。そのため、初陣では、敵の部隊に包囲され、家族には戦死扱いされてしまいました。
しかし第一次世界大戦は、機関銃や飛行機、毒ガス、戦車など今までなかった兵器が続々と投入され、戦場での騎兵の活躍の場は失われていくことになるのでした。旗をはためかして突撃するなんて行為は戦場では、もはや自殺行為の何者でもないという状況になっていくのです。
そんな失望のなか、リヒトホーフェンは最新鋭の兵器、空を駆ける飛行機を見て心を奪われます。1915年5月のこと、彼は槍騎兵部隊から転属願いを出し、飛行機乗りを目指します。
◆戦闘機乗りへ
当時の航空隊の飛行機は戦闘機という存在はありませんでした。飛行機とは、上空からの写真偵察や味方の砲弾の着弾観測が主な任務で、敵味方がすれ違っても手を振るなど、まだのんびりしたものだったのです。
しかし、戦争は次第に殺伐とした様相を呈し、飛行機も機関銃を積み、相手の飛行機の任務を阻止することも責務として始まります。
いよいよ戦闘のための飛行機、戦闘機の誕生です。偵察将校としてのリヒトホーフェンも戦闘機パイロットとして戦うようになるのです。
◆「赤い男爵」の誕生
リヒトホーフェンの機体は真っ赤に塗られていたことで有名なのですが、これは彼の所属していた部隊カラーから来ています。エリートパイロットたちの集団である第11戦闘中隊は識別色として赤を採用していたのです。
機体全体を赤くしていたのはリヒトホーフェンだけのようでしたが。
彼の名声は、撃墜数が徐々に上がるにつれ広がっていき、敵にも「赤い戦闘機乗り」として認知されるようになっていきます。
やがて戦闘機の技術開発が激化し、次々と新型戦闘機が投入されていきますが、「フォッカーの懲罰」など言われるように、ドイツ側に優位な状況が1917年序盤までは続きます。
特に「血の四月」と言われる戦いでは、ドイツ66機の損害に対し、イギリス側が245機の航空機を失うという大損害を受けることになります。
リヒトホーフェンもこの時に撃墜数を更に上げ、1917年6月には第1戦闘航空団指揮官に任命されます(この第1戦闘航空団は後に若きヘルマン・ゲーリングが率いることになります)。
彼は、そんな優位な中においても、極力パイロットを殺すことをしないという騎士道精神を発揮し、敵からも一目置かれるようになります。
仲間内でも協同撃墜の場合は戦友に功名を譲ったり、ストイックで責任感のある人物評が残されています。
◆撃墜王の最後
しかしドイツの優位も工業力のある新興国のアメリカの参戦、そして物量の前に徐々に陰りを見せ、戦局はドイツに不利になってゆきます。
1918年4月21日の早朝のこと。前日にも2機の英軍機を撃墜してついに80機の撃墜数を上げたリヒトホーフェンは、フォッカーDr.I 425/17に乗り込み、ソッピース・キャメルとの交戦に入ります。
敵味方入り交じる中、地上からの銃撃も加わり、リヒトホーフェンの機体は被弾を受け墜落しました。彼に致命傷を与えたのは誰だか未だに確定していません。25歳の若さでした。
彼の遺体はイギリスに手厚く葬られ、イギリス軍はドイツ軍の陣地上空から「リヒトホーフェン大尉に捧ぐ」という花輪を投下して哀悼を表したといいます。
この頃はまだ、戦場にも騎士道精神が残っていたのですね。
彼の遺体は、フランスの墓地に埋葬されましたが、戦後、弟たちの尽力によってドイツに返されることになりました。そして、1925年に国葬が行われます。そして、そこには、かつての敵国のパイロットたちの姿もありました。戦った者同士が分かる何かがあったのでしょう。
大空を駆け抜けた空の英雄は、敵味方の区別なく、若者たちの彼らの心の中をいつまでも飛び続けたのではないでしょうか。
リヒトホーフェンの乗機
アルバトロスCIII(複座偵察機)
フォッカーE型 (フォッカーの懲罰と呼ばれた戦いの主力機)
アルバトロス D.II
フォッカーDr.I 425/17
リヒトホーフェンをモデルにした映画「レッド・バロン」(2008)
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レッドバロン、リヒトホーフェンの名前は知っていましたが、
どういう人だったのか漠然としたイメージしかありませんでした。とても興味深く拝読させていただき、ありがとうございます。
by johncomeback (2015-04-21 15:57)
★ johncomebackさま
バイク屋のレッドバロンはやっぱりリヒトホーフェンから来ていたそうです^^
by ワンモア (2015-04-22 11:36)