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東武金崎駅と西方町の舩坂弘〜その1

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 東武金崎駅です。
 ここは、栃木市の西方町で、東武日光線の駅なのです。ここまで来るのには、県道293号線を使うのですが、栃木県の足利市から茨城県の東海村まで通じる170kmもの長い国道なのです。
そういえば、一度だけ足利市から日立市までこのルートで走ったことがあったなぁ。

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小さい駅舎ながらも駅員さんがいました。


 この東武金崎
(かなさき)は、1日の平均乗降人員が約600人。開業は昭和4年ということですから歴史ある駅舎ですね。
 西方町の人口って6千人位ですから、駅の利用客は学生さんが中心かもしれませんね。

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駅の入り口

 駅の名前である金崎ですが、元々は、金崎宿のあったところでした。日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)の宿場でしたので、元々人の通りがある場所だったようです。

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 駅舎は、思川(おもいがわ)のそばで、この周辺は田園風景が広がり、とても見晴らしがよく293号線も走りやすいのです。「道の駅 にしかた」もあります。

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293号線沿いなのでダンプも多いのです。
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 さて、この西方町ですが、私はここを通る度ある人物をいつも思い出してしまうのです。

 その方の名前は、
舩坂 弘(ふなさか ひろし)氏。ご存知でしょうか。

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舩坂弘(Wikipediaより)


 地元でも知っている方は少ないかもしれませんし、観光などのPRもしていませんが、軍事関係にちょっと詳しい方なら、知らない人はいないであろう、超有名人なのです。

 そう、東京の方なら、渋谷駅前の「大盛堂書店」の創業者といえば分かるかもしれません。渋谷センター街の入り口にある大きく目立つ看板です。

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 日本初の試みとなる、建物すべてを使用した本のデパートとして有名で、戦後からの渋谷の街を眺め続けてきた本屋さんなのです。(惜しいことに2005年6月に閉店)

 その創業者の方の出身地がこの西方町(当時は西方村)なので、車で通る度に、この方のことを思い出してしまうのです。

 舩坂弘さんがどれだけ凄い方なのかをお伝えするエピソードをいくつか。

◆『戦史叢書』に唯一、個人の戦闘記録が載った舩坂弘

 戦後20年経った1966年から「防衛研修所戦史室(現在の防衛省防衛研究所戦史部)」から『戦史叢書』なる大著が発刊されました。
 これは日本の陸海軍の戦術・戦史の膨大な資料を元に自衛隊教育や研究が目的として発刊されたものです。陸軍68巻、海軍33巻、共通年表1巻で全102巻という、ものすごい量の公刊戦史でした。
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現在では1万円以上もする高値の本に。

 大本営内部の秘匿資料や、当時の部隊関係者たちの執筆、準公式の報告書、米国から返還された戦闘詳細、外国の文献なども参考にして、現在の戦史研究者たちの最重要基礎資料となっています。
 一般の方の利用も考えて、書店でも発売されましたが、当時の定価で一冊、2,200〜4,200円。これだけの資料ですから、相当のマニアでないと買わないでしょうね^^;
 この『戦史叢書』、戦術、戦略などの作戦や戦闘記録が記載されているのですが、個人の戦闘記録(白兵戦)として、彼、舩坂氏だけが個人名が挙げられて登場するのです。

 どれだけすごい戦果を上げたんだと気になりますが、それは後述するとして、戦後も全日本銃剣道連盟参与、南太平洋慰霊協会理事、大盛堂道場館主、テキサス州名誉市民章授与など、日本のみならず海外でも活躍されています。
 また、剣道六段の腕前で、剣道を通じて三島由紀夫氏とも親交があり、三島由紀夫自決の際の介錯に使われた三島自慢の愛刀は舩坂氏が贈ったものでした。

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三島由紀夫(Wikipediaより)


◆陸軍最強の分隊長


 戦争中も戦後も活躍の舩坂氏ですが、実際の戦歴を紹介していきます。「事実は小説よりも奇なり」といいますが、この方ほどその言葉が相応しい方もいないと思います^^;
 
 栃木県の上都賀郡西方村(現在の栃木市)の農家の三男として生まれた舩坂氏ですが、1941年の21歳の時に地元の宇都宮第36部隊に入隊します。
 この部隊は満州に渡るのですが(宇都宮が餃子の町として栄えたのは、この満州帰りの兵隊さんが多かったからという説あり)、剣道と銃剣術に優れていた舩坂氏は、中隊随一の名小銃手でもありました。射撃については入隊以来、30数回の賞状・感状を受けていたそうで。部隊においても射撃徽章と銃剣術徽章の2つを同時に受けた唯一の兵士と言われていました。

 さて、戦況の悪化に伴い、その彼も宇都宮歩兵第59連隊の分隊長として南方作戦に動員されます。場所はアンガウル島、1944年のことでした。ここでの戦いは「アンガウルの戦い」と言われ、米軍戦力約2万に対し、日本は、宇都宮歩兵第59連隊の1200名足らずの戦力で戦うことになります(戦死は全体の95%にも上る1,191名)。 

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高崎、水戸、宇都宮・・・。北関東の部隊が中心だったのですね。


 緒戦で舩坂氏は擲弾筒や臼砲を使い多大な戦果をあげますが、自分自身も重症を負うことになります。どれだけ酷い怪我だったかというと、戦場に駆けつけた軍医が傷口を一目見るなり、治療ではなく自決用の手榴弾を渡して帰ってしまったほどであったといいます。

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八九式重擲弾筒を使用する日本軍兵士


 それほどまでの重症を負いながらも、彼は夜通し這い続け、自軍の洞窟陣地まで戻り、一晩で戦線に復帰するのですが、その後も度重なる瀕死レベルの負傷を受けます。
 不思議なことに翌日には回復しているのが常であったそうで、本人曰く、「生まれつき傷が治りやすい体質であったようだ」と。おいおい、そんなレベルじゃないでしょうとツッコミを入れたくなります。


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ドラマ「ザ・パシフィック」より

◆自決もできないまま、突撃を敢行

 戦闘当初から絶望的な戦力差の中で、白兵戦、肉弾戦で鬼神の如く戦う舩坂分隊長を見て、仲間からも、不死身の分隊長、鬼の分隊長と言われるほどの大活躍を見せますが、食料も水もない戦場での戦いは徐々に日本兵たちを追い詰めていきます。
 彼自身もついに腹部に盲管銃創(銃弾が体内に留まっていること)を負い、這うことしか出来なくなります。
 南方の戦場ではすぐに傷口から蛆虫が湧いてきます。ここに至り、蛆に食われて死ぬくらいならと、覚悟を決め自決を図り、彼は手榴弾のピンを抜くのでした。

 しかし、なんと、その手榴弾は不発でした。何という強運。しかし、彼はこの時、死にたい時に死ねなかったことから茫然自失、何時間もの間、深い絶望感を味わいます。
 しかし、どうせ死ぬならと、絶望から立ち直る彼は、敵司令部へ斬り込みを敢行しとうと腹を決めます。
 そこからがすごいのですが、蛆が湧いた腹部を治療すべく、拳銃弾の火薬を取り出し、患部に押し込んで火を点けます。当然、火薬は爆発しますが、出血は止まります。
 あまりの激痛に半日ほど意識を失いますが、意識を取り戻した彼は、幾つもの手榴弾を身体に括りつけ、拳銃一丁を装備し、単身出撃をします。
 

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アンガウル島への上陸前の砲撃

◆米軍指揮所の敵1万 VS 1人の戦い。


 目標は米軍指揮所。その周辺には、戦車大隊、砲兵、高射砲大隊など、総勢1万名が駐屯しています。1万 vs 1人の戦いです。正にランボー状態。

 舩坂分隊長は、4日かけて敵陣地まで這い続け、ついに米軍指揮所テント群に20メートルの地点にまで潜入することに成功します。

 この時のアンガウル島の戦いは、ほぼ収束しており、攻撃隊は全滅。生き残った守備隊がゲリラ戦で最後の抵抗を続けていました。米軍は単発的な攻撃と占領の整地に対応している状況です。

 この時までに、負傷は戦闘初日から数えて大小24箇所に及んでおり、このうち重傷は左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創の5箇所であり、さらに右肩捻挫、右足首脱臼を負っていたといいます。
 また、長い間匍匐(ほふく)していたため、肘や足は服が擦り切れてボロボロになっており、さらに連日の戦闘による火傷と全身20箇所に食い込んだ砲弾の破片によって、さながら幽鬼か亡霊のようであったといいます。


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「Battle Of The Pacific」より

 舩坂分隊長は米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入すると決めていました。指揮官たちが指揮所テントに集まる時を狙い、待ち構えていたのです。
 ジープが続々と司令部に乗り付けるのを見、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握り締め、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し、立ち上がり、突入を開始します。
 突然、茂みから姿を現した異様な風体の日本兵に、発見した米兵もしばし呆然として声も出なかったといいます。
彼の最後の突撃は成功するのか。その結果は如何に。

Cap 384.jpg

→続きます。

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コメント 3

tochi

東武金崎駅
昔は新栃木駅から単線になっていました
戦時中に線路を拠出しました
東武金崎駅には引き込み線があり。小倉川から砂利を貨物列車に積んでいた時代もあります
駅ホームは、急行列車が鈍行を抜けるように舟型になっています
たぶん東武線ではここだけだと思います

舩坂 弘(ふなさか ひろし)氏
ん~あまり聞かない苗字ですね
どこに住んでいた人ですかね
あとで調べてみます
by tochi (2015-08-28 19:53) 

desidesi

面白い!はやく続きが読みたい〜♪ (๑◔‿◔๑)
by desidesi (2015-08-28 20:09) 

johncomeback

凄い兵隊さんがいたんですねぇ~、
先が気になって今晩眠れないかも(^^)ニコ
by johncomeback (2015-08-29 09:07) 

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