SSブログ

不死身の軍曹、舩坂弘の生涯〜その2


 前回からの続きで、栃木市の西方町に縁のある舩坂弘氏について記事にしています。
 前回は、味方が全滅したなか、満身創痍の舩坂分隊長(軍曹)が敵の目をかいくぐり、単身、敵司令部に斬りこんでいったとこまででした。
 敵は米軍のトップと1万の軍勢、こちらは瀕死の重症を負った1人の日本兵。1万対1人の戦いです。


◆頸部を撃たれて作戦は失敗。

 はたして彼の突撃は成功したのでしょうか。
司令部のテントまであと20m。ここまで来たらあとは立ち上がって突撃あるのみです。
 身体中に武器をつけ、司令部めがけ飛び込んだ彼でしたが、手榴弾の信管を叩こうとした瞬間、頸部を撃たれてしまいます。
 米軍にしてみれば危機一髪でした。彼の目論見は失敗してしまいます。首を撃たれて昏倒した彼の姿を見た米軍の軍医は、当然死んだものと判断します。だって頚椎って首ですから。即死してもおかしくない場所です。


 玉砕攻撃で無謀な突撃を繰り返す日本兵たちでしたが、ここまで敵陣深くまで侵入されるとは思いもよらぬことだったのでしょう。
 このとき、軍医は手榴弾と拳銃を握り締めたままの指を一本一本解きほぐしながら、米兵の観衆に向かって、「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ。」と語っています(自著『殉国の炎』潮出版社 1971年3月初版 寄稿20項 ロバート・E・テイラー 和訳より)

彼は死体安置所に持って行かれました。

Cap 393.jpg
ザ・パシフィックの1シーン、日本兵の突撃

◆三日後に蘇生。生き返る舩坂弘(不死身か)

 ところがです。3日ほどして、彼は死体安置所にて息を吹き返し、むっくりと起き上がったのでした。これには監視の米兵も恐怖に凍りついたといいます。当然だと思います。首を撃たれたんですよね。えっ、どうして?ゾンビ?

 息を吹き返した舩坂分隊長は、情をかけられたと勘違いし、周囲の医療器具を叩き壊し、急いで駆けつけたMPの銃口に自分の身体を押し付け「撃て!殺せ!早く殺すんだ!」と暴れ回ったのでした。

 この不死身で奇妙な日本兵の話は、アンガウルの米兵の間で瞬く間に話題となりました。ゾンビのように生き返ったことも話題になりましたが、それよりも無謀ともいえる司令部突入計画に大半はその勇気を称え、「勇敢なる兵士」の名を贈ったといいます。
 元アンガウル島米軍兵であったマサチューセッツ大学のロバート・E・テイラー教授は、戦後舩坂氏宛ての手紙の中で、「あなたのあの時の勇敢な行動を私たちは忘れられません。あなたのような人がいるということは、日本人全体の誇りとして残ることです」と、讃辞の言葉を送っています。
 それにしても・・・。撃たれた場所が幸いしたのでしょうか。不死身か。


◆彼を救った米兵

 その後、ペリリュー島本島の捕虜収容所に身柄を移されるのですが、この時すでに、彼の話は伝説となってペリリュー島の兵士たちにも伝わっていました。
 彼は所属がわからぬように”フクダ”と偽名を使っていたのですが(このことが原因で彼は戦死とされる)、”グンソー・フクダ”の言動には気をつけろと、要注意人物の筆頭に名を上げるほどになっていました。
 当然、彼もおとなしくしていることはありません。ペリリュー本島に身柄を移されて2日目には、瀕死の重症患者ということで監視が甘くなっている隙をつき、収容所から抜け出し、1Km先の米軍火薬庫の爆破を成功させます。
 爆破後は、元来た道を辿って収容所に戻り、何食わぬ顔で翌朝の点呼に参加しています。このため、大々的な捜査にも拘らず、最後まで弾薬庫が吹き飛んだ原因は判明せず、米軍記録には“原因不明の爆発”による損失としか記されていません。後の尋問の際にも彼はすっとぼけたといいます。
Cap 383.jpg

 実際この時は極度の栄養失調と、失血により、両目がほとんど見えない状態であったといいます。
 もう、ここまでくると、舩坂弘という人は本当に人間なのか疑わしいほどです^^; あれですか、栃木の西方村には、古来から天狗とか、モノノケとか、なにか人間でない血脈でも流れているんでしょうか? 異能生命体かなんかか?

 彼は怖ろしいことに、さらに2回にわたって米軍飛行場を炎上させることを計画しますが、同収容所で勤務していた、フォレスト・ヴァーノン・クレンショー伍長という兵士にその度に阻止されます。
 このクレンショー伍長が彼の運命を変えていきます。彼は敬虔なクリスチャンで殺生を好まぬ人物でした。
「貴方も神の子なんです、死に急ぐことは罪悪なんです。」と説き伏せる伍長。
 もちろん舩坂氏は言うことなんか聞きません。
 何度も脱走を試みますが、その都度、彼が邪魔をします。他の捕虜は脱走するものの運悪く発見されて射殺されたりしているのです。
 こういう人に巡りあうなんて、舩坂氏はどれだけ運があるのでしょう。反抗的で、死に急ぐ彼も、次第に伍長に心を開くようになっていったのでした。二人の間には友情に近い交流が生まれます。
 しかし、出会いがあれば別れも。舩坂氏はハワイに移送されることになりました。
 ふたりは硬い握手を交わした後、戦後も連絡が取れるようにと、伍長は自分の名前を書いた紙切れを彼に渡します。互いの姿が見えなくなるまで二人は大きく手を振ったのでした。

Cap 387.jpg


◆帰国、そして大盛堂を開業

 舩坂氏は、グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサス、と終戦まで収容所を転々と移動し、ようやく1946年に帰国することになりました。
 彼が帰郷して最初に行ったことは、自分の墓標を引き抜くことであったといいます。1年3ヶ月もの間、戸籍上では死亡していたのですから、家族もビックリです。
 地元でも、村の人々から、彼は幽霊ではないかと噂され、しばらくの間、疑いの目で見られたといいます。まあ、そう思いますよね・・・。

 彼は東京の渋谷で大盛堂書店を開業します。この眼で見てきたアメリカの先進性を学ぶことが、日本の産業、文化、教育を豊かにすることではなかろうかとの思いから、書店経営を思い立つのです。
 
outside_sm.jpg
渋谷の交差点にあった大盛堂(現在は閉店)

 そして、自らも体験したことを書籍として出版します。その印税は、「世界中の人々に役立ててほしい」と、全額国際赤十字社に寄付したといいます。
 そして書店経営の傍ら、残りの人生を自分が戦ったアンガウル島をはじめとした日本将兵たちの慰霊碑を建立することに費やします。
 アンガウル島での収骨慰霊を毎年欠かすことなく、遺族を募って慰霊団を組織し、現地の墓参りに引率し、さらにパラオ諸島原住民に対する援助や、現地と日本間の交流開発に尽力。数年にわたる戦没者の調査と遺族への連絡等々、精力的に活動を行い、その人生を捧げたのでした。
 これらを指して、舩坂弘氏を知る人たちは「生きている英霊」と呼び、その業績を称揚しています。
51Jv-C700gL._SX348_BO1,204,203,200_.jpg
舩坂弘氏の著作

 また、彼を救った恩人である、クレンショー伍長とも20年ぶりのようやくの再会を果たします。お世話になった仲間の捕虜達も連れて日本の観光旅行で、日光などに足を伸ばしたこの時の様子はTVでも取り上げられたそうです。
 帰国したクレンショーは、新たに貿易会社を創立しますが、その名は「タイセイドー・インターナショナル」。舩坂が経営する書店「大盛堂」から名を借りた会社名でした。

 先日も硫黄島での日米合同慰霊祭が行われましたが、当時の日米兵士たちの間には温かい交流があったといいます。
 真に戦った者同士、そこには「謝罪」や「賠償」を求める言葉など出ませんでした。お互いが憎しみ、殺しあった地獄のような戦場。数十年経った現在、かつての敵同士は深い友情に結ばれているのです。

Cap 390.jpg

 そこには、戦った者同士にしか分からない、怒りや憎しみを乗り超えた感情があるのだと思います。
 銃弾が飛び交う
地獄のような戦場で、お互いが「祖国の家族を守るため、また自分が生き残るために人を殺す」という複雑な感情。
 この日米兵士の極限状態の共有体験が、やがて時が経つにつれ、敵味方を超えたつながりが生まれたのだと思います。
 そして、お互いが「安易な選択で、再び戦争を起こしてはならない」という思いも。
 祖父たちのこの思いを子孫たちが受け継ぐことで、日米の友好は今後も続いていくことができるのではないでしょうか。

4281f63d.jpg
硫黄島で行われた日米合同慰霊祭での様子

 舩坂弘氏は、2006年2月11日に腎不全のため85歳で死去されました。不死身の超人的な軍曹であったこともさる事ながら、彼の不屈の精神と勇敢な戦い、その後の復興の努力に深い敬意を捧げたいと思います。

 私はこの舩坂弘氏のことは一生忘れることはないでしょう。そして、これからも、この西方町を通るたびに思いを馳せることでしょう。子どもたちにも伝えたい人物だと思います。

Cap 391.jpg
国道293号線から見る西方町

Funasaka_hiroshi_(retouched) copy.jpg


 戦史叢書の『陸軍作戦史二巻』には、
「舩坂軍曹は、激戦ののち重傷、 最後に敵将に一矢を報いんとして (中略) 三日間意識不明、 死の世界を彷徨し、米軍に手厚く看護され蘇生。昭和二十一年正月、 奇跡的に復員帰国した」と記載されています。

参考資料
 舩坂弘(Wikipedia)
 戦史叢書(Wikipedia)
 『殉国の炎』潮出版社
 
『英霊の絶叫』光人社など
 篠原直人さんという方のブログ『南溟の桜』←オススメ
 →アンガウル島やパラオなどの慰霊と戦跡の詳細な画像が見られます。

【通常版】 THE PACIFIC / ザ・パシフィック コンプリート・ボックス [Blu-ray]

中古価格
¥8,274から
(2015/8/29 18:52時点)


聖書と刀―太平洋の友情
(1971年)

中古価格
¥6,837から
(2015/8/29 18:48時点)


パラオ戦跡を歩く

新品価格
¥1,500から
(2015/8/29 18:49時点)


太平洋戦跡紀行 ペリリュー・アンガウル・トラック

新品価格
¥2,376から
(2015/8/29 18:51時点)


こんな記事もどうぞ

来たよ(39)  コメント(7)  トラックバック(0)  [編集]
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 39

コメント 7

tochi

舩坂弘 氏
西方村の古い電話帳(昭和50年頃)を見てきましたが、舩坂はありませんでした
ゆかりのある方はいない感じですね
珍しい苗字なので知っている方がいると思います
あとで知り合いに聞いてみます
by tochi (2015-08-29 21:17) 

ワンモア

私も調べてみてるのですが、
舩坂性は電話帳では記載されていないようですね。
農家ですので引っ越すことはないと思うのですが、
何かしらの事情があるのかもしれません。

舩坂氏は旧西方村の農家の三男坊として生まれているそうです。
東京では曹洞宗で葬儀がされていたので、西方町の曹洞宗でも調べております。
また情報が入りましたらお教えくださいm(__)m

by ワンモア (2015-08-30 03:07) 

johncomeback

読み応えがありました。
船坂氏の著作を読みたくなりました。
by johncomeback (2015-08-30 08:35) 

koh925

いい話を教えていただきました、有り難うございました
日本には、昨日の敵は今日の友、死ねば仏とも言いますね
日本には千年恨はありませんね
by koh925 (2015-08-31 15:12) 

desidesi

すごい話ですね。
まさに小説より奇なり〜♪(๑◔‿◔๑)
by desidesi (2015-08-31 22:07) 

ワンモア

★johncomebackさま
 舩坂氏の著作は絶版にもなっていますが『英霊の絶叫』が一番知られていると思います。

★koh925さま
 コメントとniceありがとうございます。日本には「水に流す」とか「死ねば皆仏」という文化ですので、私は日本の文化が好きです^^

★desidesiさま
 いつもありがとうございます。ですよね。この方は人間の生命力の限界に挑んたんじゃないでしょうか。っ゚д゚)っ

by ワンモア (2015-09-01 10:11) 

ロートレー


絶望的な戦況のなかで最後まで苛烈に戦い抜いた日本人がいたのですね
鬼神も避けるとは、舩坂軍曹のような方をいうのでしょうね



by ロートレー (2015-09-01 22:29) 

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました
Copyright © 1/144ヒコーキ工房 All Rights Reserved.

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。