今から1,300年も昔の奈良時代の頃。この天平年間は、天変地異の災害や疫病が多発した時代で多くの民が苦しんでいました。仏教に深く帰依していた聖武天皇(しょうむてんのう:701〜756年)は、日本が安泰になるようにとの願いを込めて、日本全国に「国分寺」を建立することを決定します。
全国60箇所に建てられた国分寺の一つがここ、下野(しもつけ)国分寺なのです。近くをいつも通っていたのですが、寄るのは今回が初めてです。
ちなみに、この近くに下野国庁跡があります。今でいうお役所のような所ですね。
→【栃木】下野国庁跡を探索
下野国庁跡
駐車場はかなり広め。建造物は何もなく、朱色の柱が二本立っているだけです^^;
まあ、国分寺跡ですからあまり期待はしていませんでしたが・・・。
さらに この周辺ですが昔の豪族の古墳群があります。これだけ集中している地域も関東では珍しいのではないでしょうか。
この国分寺を建立する際にも地元の豪族たちの協力を得て建立されていますので、立地条件は良い所に建っていたと思われます。
ホントに広大な土地だけ・・・何もありません^^; 下野
しかし、朱色の門に向かって歩いていると、広い道の雰囲気のせいか、昔の宮使か勅使になったような気分にひたれます^^。 これは意外と面白い。
下野国分寺は、このような場所であったようです。奥にみえる建物は、国分尼寺(法華滅罪之寺)ですね。
尼さんが10人修行していたとのこと。 基壇の規模だけでもその大きさが計り知ることができます。
広いです。とてつもなく広いです。 この上に復元建築の予定はあったのかな?基礎工事が済んだ跡のようです。段差がかなりあるので、復元工事がかなり大掛かりであった感じですね。 所々に透明なアクリル板に建築物のイラストが。
この場所から七重塔があった場所が望めます。
七重塔も全国に建立されました。
説明図もしっかりとありますが、
かなり広いので、そこまで行くのが大変です^^;
一番奥に僧坊があります。
全国の国分尼寺の僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことが定められたそうですが、それにしてもイマジネーションが掻き立てられる空間です。僧坊跡に佇んでいると、千年以上も前の僧侶たちは、何を思い、そういう願いでここで修行をしていたのか、毎日何を想っていたのだろうか、など、尽きることがありません。
画像では、その広大な広さが伝わらないと思いますが、大きな土地にこれだけの建築物を建立し、60mもの塔を建てた当時の国力(もしくは下野国の豪族)はかなりなものであったのだろうなと推察できます。
この国分寺、時代の変遷と共に次第に廃れていくのですが、もっと具体的にどのように廃れ、終焉の時の僧侶たちはどのように思って、どこへ行ったのだろうか、こういうことをもっと知りたいですね。
学校の歴史って年号の羅列ばかりでつまらなかったのですが、こういう場所から学ぶことの方が数倍面白いと思います。
聖武天皇はこの「国分寺建立の詔」の翌々年、奈良の大仏の建立も行います。日本全国に仏教に関係した名前が付けられるようになったのはこの頃だそうで。
日本全国に建立された国分尼寺の場所が説明図でありました。分かりやすいです。
さて、この近くに資料館もあるので、寄ってみます
→続くです。
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2015-10-10 23:55
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