しかし、商業的には恵まれないうちにテストパイロットのウルフの方が1927年に事故死してしまいます。
この事故を起こした機体はF19エンテと呼ばれる革新的な飛行機でした。ハインリッヒ・フォルケという人は、この他にもオートジャイロとか、世界初の実用的ヘリコプターFw61などを開発しています。
ちなみにオートジャイロとは、外見はヘリコプターににていますが、ヘリコプターのように直接回転する翼を駆動しません。ですので前身するためのプロペラが前についています。
このオートジャイロ機の設計をベースにして、1936年6月26日に世界最初の実用的ヘリコプターであるFw61の初飛行に成功しています。ドイツはこの時から他の国を一歩リードしていたのが分かりますね。
しかし、このフォッケ博士もユンカース博士やハインケル博士同様、ナチス政権に批判的であり、政府が会社に介入するのを嫌がっていました。
自由に自分が作りたい飛行機を製造したいのにナチスは戦争を見据えた実用的な戦闘機などを作らせたかったのです。
そこでナチスは株主たちに圧力をかけさせ、政治的に信用出来ない人物とし、フォッケをフォッケウルフ社から追い出します。1936年の事でした。
これによって、フォッケウルフ工場の生産能力を最新鋭のメッサーシュミットBf109の生産に充てることができるとの思惑あったようです・・・。
追い出されたフォッケはパイロットのゲルト・アハゲリスと共同でフォッケ・アハゲリス社を設立し、ヘリコプターやティルトローターなどの先鋭的な飛行機を次々と開発していくことになります。
◆テストパイロットでもあったクルト・タンク
さて、創立者がいなくなってしまったフォッケウルフ社ですが、すでに優秀な技師が入社していました。それがクルト・タンク(Kurt Tank:1898〜1983)です。
タンクは飛行艇で有名なロールバッハ社→バイエリッシュ社(BFW、後のメッサーシュミット社)と渡り歩いての入社でした。設計に対する素晴らしい才能とカンを持ち合わせた奇才と言われていました。
私が思うには、彼が他の設計者に比べて強みがあるのは、設計の才能以外に彼自身がテスト・パイロットでもあったことだと思うのです。
メッサーシュミットも日本の設計者たちも優秀で天才肌であったと思うのですが、実際に空を飛んで操縦することはできませんでした。
「パイロットの視点で設計する」。それは、想像力を働かせて設計する以上の強みであったと思います。
彼は後に四発旅客機のFw200を設計・開発するのですが、ついでに四発機の機長のライセンスまで取得しています。自分も飛びたいんだろうなぁと^^;
自分の考えた飛行機で自分が操縦して空を飛ぶ・・・最高ですね^^
◆クルト・タンクが開発した航空機たち
フォッケウルフ社の主任技師であるクルト・タンクの名を知らしめたのはなんといっても有名なFw190ですが、それ以外にFw187と先ほど紹介したFw200という優秀な航空機を設計しています。
Fw187ファルケ(1937年初飛行)は、Bf110に対抗する機体で、実際にもBf110より高性能であったのですが、航空省は1機種体制で、すでにBf110の機種に絞ることを決定していましたので、数機のみの生産に終わります。
このFw187、1939年10月には635km/hの双発機世界最高速度を記録し、試作機の3機は自社のブレーメン工場の防空任務にも尽き、敵機を撃墜していますので、もったいないですね。
Fw200(1937年初飛行)はドイツでは珍しい四発大型長距離旅客機で、ルフトハンザ航空で使用され、のちに軍用機へと転用されます。
この2機種の成功により、クルト・タンクとフォッケウルフ社の開発力がドイツ航空省に買われ、Bf109戦闘機の補助機としての名目でFw190への開発へとつながっていく訳です。
◆傑作戦闘機Fw190Aヴェルガーの誕生
1937年の秋。「戦闘機はBf109だけで充分である」という楽観的なドイツ航空省の中にも「一応補助的な役割で、もう1機種くらいあってもよいのでは」という声があがり、Fw189、Fw200で成功しているフォッケウルフ社に声がかかります。
クルト・タンクのコンセプトは明確でした。「戦闘機という兵器は戦場の過酷な状況で運用されるもので、未熟なパイロットや整備員にも使われる。ダメージを受けても頑丈であり、銃弾からエンジンやパイロットを保護し、整備や修理も迅速かつ容易に行えること。」ということです。
Bf109がいわばサラブレッドの駿馬とすれば、Fw190は過酷な戦場に耐える馬力のある騎兵の馬というところでしょうか。
またパイロットの視点から視界も充分確保し、計器や各種装置の扱いやすさなども徹底的にパイロットの視点に立って設計されています。
自分が乗ってみて操縦してみて改良をする。理想的な設計方法だと思います。
このようにして開発されたFw190Aは、ヴェルガー(もず)の愛称をもらって、1941年に前線に投入され、当時のスピットファイアMkⅤを圧倒します。
このFw190Aは日本にも輸入されており、日本のパイロットや技術者たちにも影響を与えました。特にFw190Aの空冷エンジンの空力処理の方法は、五式戦の開発時に大いに参考になっと言われております
→液冷エンジンを諦めた飛行機たち〜「飛燕」と「彗星」その2
◆戦中の開発機
この間にもFw190Aを空冷化したFw190D、さらに高高度戦闘機として開発したTa152H、さらにはイギリスの木製戦闘機モスキートに対抗したTa154などを開発。
1943年以降はフォッケウルフ社に在籍したまま設計者の姓の略号であるTaを付けることができるようになります。
終戦間際には、後退翼のジェット戦闘機Ta183を、片腕となったハンス・ムルトホップ技師とともに開発しています。
このスタイルは冷戦後のソ連の戦闘機Mig-15に酷似していることから設計のもとになっているとも噂されていました(否定説もあり)。
こっちがMig-15。T字尾翼ではないにせよ、異常に大きい垂直尾翼や後退翼が似ていますね。
◆戦後のクルト・タンク
さて、ドイツの科学者・技術者たちの努力も虚しくドイツは敗戦するのですが、彼らを待ち受けていたのは、航空技術や宇宙技術の米ソの争奪戦でした。そしてドイツは日本と同様、一切の航空技術の開発を禁止されます。
争奪戦からあぶれた技術者たちは、自らの力で、またナチスドイツの政治力の影響下にあった南米へと渡っていくことになります。
クルト・タンクはアルゼンチンへ、メッサーシュミットはスペインへと渡ることになるのです。
この点、日本から出なかった日本の航空技術者たちとは異なりますね。
クルト・タンクはTa183の設計図をもとにリメイク版ともいえるIAe プルキⅡを設計。1950年に初飛行に成功し、開発には成功しますが、アルゼンチン政府の政治的経済的・政治的困難で1953年に開発は中止されてしまいます。
タンクたちの元フォッケウルフ社のチームはここで解散し、その多くはアメリカへと渡りました。
タンク自身はというと、さらにインドへと渡り、今度は音速ジェット機HF-24マルートの開発に携わります。1956年、タンク58歳のことでした。
◆日本に来たクルト・タンク
このインドでHF-24マルートを開発中にタンクは一度、日本に単身で来ているのです。それも宇都宮の富士重工に。これ、驚きでした。そういえば、先輩が上司から聞いた話で言っていた記憶が。
1959年のこと、栃木県宇都宮市にある富士重工宇都宮製作所(旧中島飛行機製作所)の守衛所に突然、ブリストル社の紹介状を持った一人の外国人が尋ねてきたそうです。
当時、量産されていた航空自衛隊のジェット練習機T-1Aが装備していたブリストル社製のエンジンの艤装を見学したいと述べ、控えめに「私はクルト・タンクと申します」と名乗ったそうで。
タンクはこの時、インドで、HF-24を開発している最中でしたが、同じブルストル社のエンジンを搭載しているT-1Aのダクト形状に興味を持っていたとのこと。
見学の後は富士重工の若手エンジニア達とディスカッションの機会を持ち、技術面での持論を展開して見せたといいます。
羨ましい話です。自分だったら緊張して話せないなぁ^^;
この時の写真や詳しい話はこちらのサイトにありますので、興味のある方はどうぞ。
→http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln10/2007cl/FW_Ta152H.html
ちなみにタンクの鼻柱は凹んでいたそうですが、自分の操縦した不時着の負傷の痕とのこと。パイロット兼技術者としての特異な経歴を象徴していると思います。
この時は、60歳位でしょうね。富士重工の皆さんの驚きと興奮が容易に想像できそうです^^・・・「うぉおぉ、あのフォッケウルフ190の・・・設計者だ!」だなんてね。
業界では知る人ぞ知る有名人ですので。
タンクが来日して2年後、無事HF-24 マルートは1961年初飛行に成功し、150機近くがインド空軍で運用されることになります。
インドでの仕事を終えたタンクはドイツへ戻り、残りの人生を送っています。1983年6月5日死去。享年85歳の人生でした。
どの設計者にも思い入れのある飛行機があると思います。クルト・タンク博士は、どの飛行機が一番思い入れがあるのでしょうか。
どれも、思い入れがありそうな感じですが、自分の設計した機体で大空を飛び上がる・・・。そして、その機体が沢山作られて大勢のパイロットたちが操縦する。設計者冥利につくますよね。
特異な経歴ではありましたがクルト・タンク、満足できた人生であったと思うのです。
<参考資料>
『フォッケウルフ戦闘機』伊藤五郎著(光人社)
『航空ジャーナルWWⅡドイツ戦闘機』
『ドイツ昼間戦闘機』など
世界初のヘリコプタ、FW61について
→4月15日はヘリコプターの日でした。
|
|
|
この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。
こんばんは。
技術は戦争によって進歩してきたのが分かります。
紅葉だけでなく水の流れは癒されますね^^。
by 海を渡る (2015-11-21 20:41)
とドイツの技術はすごいですね。
by ねじまき鳥 (2015-11-21 21:24)
クルト・タンク、映画にでもなりそうな生涯だったのですね。
by 隊長 (2015-11-21 22:07)
今回艦これの秋イベントでFw190T改追加されました ^^)
by アニ (2015-11-22 00:05)
高性能機Fw190D-9は647機量産されましたが、奮戦及ばずドイツは敗戦しました。D-9の発達型、Ta152は設計者の名前が入りましたが、量産機は僅か67機と少なく実戦に殆ど影響が有りませんでした。ドイツの技術力は素晴らしいけれど、量産型が決定する前から既に発展型の開発に専念し、戦力化よりも技術開発におぼれた基本方針が罪で有ったと言えます。
by bpd1teikichi_satoh (2015-11-22 11:08)
世界初の実用ヘリコプターのフォルムに驚きました。
by johncomeback (2015-11-22 11:27)
★ 海を渡る さま
歴史の皮肉だと思うのです。良くも悪くも私たちは戦争の生み出した遺産の上に幸福を享受しているのですから。
★ねじまき鳥さま
こんにちは〜「ナチスの科学は世界一チイイイイ!!」という有名なセリフがありますね^^;
★隊長さま
クルト・タンク技師、ドイツ人らしい方であったと思うのです。航空機設計者としては理想的ですよね。
★アニさま
Fw190T、日の丸つけていましたね!^^
★bpd1teikichi_satohさま
ドイツは技術の可能性に情熱を燃やすところがありますよね。
ただ、これは日本にも言えることで、勝ってる国は大量生産ラインの勝ち馬に乗り、不利な国は、開発途中からのバリエーションや多くの機種の開発に流れる傾向はあると思うのです。
業績が不利な飲食店が焦りのあまり色んなメニューを出して一点集中できずに、もっと業績が悪化するのに似ていると思います^^;
それが証拠にドイツは高性能機のBf109,Bf110で勝てると思い単機種一本ラインで楽観的でしたが、戦局が不利になったと同時に各社に戦闘機を発注させ、多くのバリエーションを作らせています。
自分たちの開発した航空機が色んな可能性があることをPRしたくなるのは技術者としては当然の心理で、それを増長させたドイツ航空省の方針ミスではなかったのかなと。
でも戦争には敗退しましたが、その技術が東西に流れ、結果的に宇宙開発や航空技術の進歩につながったのは結果的には功を奏したように思います。
★johncomebackさま
あ、流石、目の付け所がエンジニアですね。
私も、原理がわかっていて先例のないヘリをデザインするには前例の航空機の姿に準じるだろうなと思うのです。
そういう意味ではこのFw61って飛行機とヘリの中間のようなスタイルですよね。
前にもプロペラがついていますが、エンジン冷却用だそうです。
by ワンモア (2015-11-22 12:05)
ワンモアさん有難うございます!確かにその様な事が言える
と思います。此処で海軍の事を書かせて貰うと、ナチスUボートは1200隻建造され通商破壊戦に投入しました。これに対する大戦中の日本の潜水艦は137隻、アメリカは243隻だった。そしてご存じ様に、一時はイギリスを屈服寸前まで追い込みましたが、大戦中期より新型のレーダー、ソナーなど
の対潜攻撃兵器を駆使した連合国軍対潜掃討に圧倒され、大戦末期より水中性能を飛躍的に向上させた水中高速潜水艦建造へと転換を図りましたが、時既に遅く敗れ去りましたね。
by bpd1teikichi_satoh (2015-11-22 14:21)
★bpd1teikichi_satohさま
おぉ、お詳しいですね。ブログを拝見していますと、艦船にもご興味がおありのようで。
私、艦船はあまり詳しくないのでまた教えてください。潜水艦は興味大です^^
by ワンモア (2015-11-23 11:56)