1903年のこの日、アメリカ・ノースカロライナ州のキティホークでライト兄弟が人類初の動力飛行に成功しました。兄ウィルバー・ライト、弟オーヴィル・ライトの二人による偉業でした。この機体は「ライト・フライヤー号」として有名ですね。
ちなみにこのライト・フライヤー号、ライト兄弟の初飛行100周年にむけて、ライトフライヤー号を復元する研究がいくつか行われたのですが、コンピュータのシミュレーションでは姿勢が安定せずに普通に飛べず、完成した復元機に至っては離陸すらできなかったそうです。
ライト兄弟が成功したのは当日の強風と、兄弟の操縦技術のおかげだという見解もあるそうで。
ここまでが、世界的によく知られている歴史ですが、このライト兄弟の名誉は実は日本人に与えられていたかもしれないという驚きの事実はご存知でしょうか。それは、二宮忠八という人の発明で、「玉虫型飛行器」と呼ばれるものでした。
これは、日本のひとりよがりでもなんでもなく、1954年に英国王立航空協会が彼のことを「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物」と紹介し、模型を展示していることからも窺い知ることができます。
→http://enjoy.sso.biglobe.ne.jp/archives/flying/
二宮忠八(1866年7月20日〜1936年4月8日)は、世界中の多くの研究家同様、空への憧れを強くもった少年でした。
1887年に徴兵で野外演習中、カラスの滑空を見て固定翼の着想を思いつきます。グライダーの原理ですね。
その後、ゴムひもでプロペラを駆動する模型飛行器(カラス型)を製作するのですが、すでに水平尾翼や垂直安定版を考えていたというから驚きです。
「飛行器」とは二宮忠八の造語だそうで。
明治24年(1891年)4月29日にはこの模型を10m飛行させ、日本初のプロペラ飛行実験を成功させます。ゴム動力とはいえ、自力で飛行をすることができる飛行機器が飛び立った記念すべき瞬間でした。
たまにこれを世界初の出来事のように記述する文献がありますが、アルフォンス・ペノーというフランス人が、20年も前に1871年にゴム動力の飛行機を製作、飛行に成功していますので、「日本初」という表現が正しいようです。
二宮忠八は、その後も100種類以上の鳥や昆虫の飛行姿勢を観察し、玉虫の優れた飛行構造に目をつけます。
そして2年後の明治26年(1893年)10月には有人飛行を前提にしたタマムシ型飛行器の1/6の縮小模型を作成します。これは、ライト兄弟の実験成功よりも10年も前のことです。
この後、二宮忠八は日清戦争への徴兵を受け再度出兵するのですが、戦地での物資の空輸、患者の輸送、空からの偵察に飛行器の存在が有効であることを感じ、その開発を上司へ上申するのです。
しかし、当時では、飛行器の存在というものが、上司の想像を遥かに超えていたのか、あえなく却下されてしまいます。
戦争から帰ってきた二宮忠八は、飛行器が世の役に立つことを実証したいと思い、再度、軍に申請するのですが、実績をもって証明する以外の道はないことを悟ります。時は1896年。人類初の飛行まであと7年というところまで来ていました。
二宮忠八は、軍を辞め、製薬会社に入社、メキメキと出世をし、製薬会社業界でもなくてはならぬ重要な存在になっていきます。
さらに数年後、資本も時間もできた二宮忠八は、誰の力も借りる必要がなくなったところで、休んでいた念願の飛行器づくりを再開します。
動力機関もその間に成長を行い、12馬力で重量が120kgまでの性能を出していました。いよいよ動力付き飛行機の動力が実現化するところまで時代が追いついてきたのです。
作業は順調に進み、機体の完成が近づいてきた1909年(明治42年)10月3日のことでした。その日二宮忠八が見た新聞記事には、アメリカのライト兄弟の成功が載せられていたのでした。初飛行の成功してからすでに6年。日本にようやく、そのニュースが飛び込んできたのです。ライト兄弟の初飛行は、アメリカ国内でもほとんど報道されず、その後兄弟も、アイデアの盗用を怖れて公開飛行をなかなか行わなかったため、広く知られるようになったのは数年後のことだったのです。
先を越されたこの時のショックからか、二宮忠八は飛行器づくりを辞めてしまいます。落胆したその後の二宮忠八は、自らの本職の製薬の仕事に打ち込むことになります。
時は過ぎ、時代も明治から大正へと移り変わり、飛行機の導入と開発が本格的になっていった大正11年(1922年)。
軍部は、二宮忠八の功績を改め直し、当時の日本の航空会会長でもあった長岡中将から二宮忠八へ一通の分厚い手紙を届けました。
書面には、今までの不明への詫びが書かれていました。欧米諸国に先駆け、二宮忠八のような研究者がいたことを日本のみならず、世界の航空史にとっても驚嘆に値するものであったこと。それを軍の不明により、せっかくの大発明を台無しにしたこと、日本の航空界の発展を遅らせてしまったことへの許しを請う文章が連綿と書き連ねてあったといいます。
もしあの時、二宮忠八の案を軍が採用し、国家で研究を推し進めていたら、人類初の有人動力飛行機は日本人の手によって成されていた可能性があったかもしれません。
実際問題としては、この時の忠八の製作していた機体は、理論的には正しかったのですが、エンジン馬力に対して重量が重過ぎるため、完成しても恐らく飛べなかったと考えられています。また無尾翼機の設計だったので、安定性に欠けていたのは事実のようです。しかし、最初の設計から止まっていた10年もの長い歳月は、更なる改良、研究開発するには充分な期間であったのではないでしょうか。
もし、この時に軍に二宮忠八への理解者がいて、豊富な資金と人材の応援があったなら・・・と考えてしまいます。蒸気機関から自動車用エンジンの開発、そして航空用のエンジンの開発へと拍車もかかったことでしょう。もう少し違った歴史になったかもしれませんね。
今までの功績を認められた二宮忠八は数々の表彰を受け、国定教科書にも掲載されるほどになりました。今までの努力が決して無駄ではなかったことに充分満足できたのではないかと思います。しかし、彼はまだやり残したことがあることに気づきます。
それは、空で命を落とした者たちへの慰霊です。
京都府八幡町の自宅の敷地内に私財を投じて、「飛行神社」を建立し、航空事故の防止と犠牲者の冥福を祈るために、自らも宮司の資格を得て神主となります。
そこで生涯、航空の安全と、航空殉難者の慰霊に一生を注ぎこむことになるのでした。
人類初の名誉はアメリカのライト兄弟の手に渡りましたが、その後、兄弟は40年にも渡る特許争いに巻き込まれ、「飛行機の発明などしなければよかった」という晩年の弟の言動が生まれるほどに不幸な人生を送ることになります。
それを思うと、名誉こそ逃しましたが、日本国内で充分認められ、航空殉教者の慰霊に残りの人生を投じた二宮忠八の人生は穏やかで幸せなものであったのではないかと思うのです。
→飛行神社HP
京都府八幡市八幡土井44
航空会館
東京都港区新橋1丁目18番1号 航空会館9階
参考資料
→二宮忠八飛行館
→「歴史をつくった航空人列伝」〜航空史編など
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なんと飛行機の日があったとは!
サンタさんからの伝言!
もしお差し支えなければ、私の記事左上のメールフォームからご連絡頂けると嬉しいですo(^_-)O
by 駅員3 (2015-12-17 19:14)
飛行機の日は飛行神社に行ったときに知りました(^^)
by ma2ma2 (2015-12-17 19:40)
★ 駅員3さま
こんばんは~。メールフォームへ連絡入れておきました〜。今後ともよろしくお願いします^^
★ma2ma2 さま
ma2ma2 さんならきっとご存知だと思っておりました^^
旅行客の方にも人気のお守りですよね^^
by ワンモア (2015-12-17 20:41)
おはようございます!!
さきほど伝書鳩を放ちました(^_-)/
by 駅員3 (2015-12-18 07:05)
拙ブログへのコメントありがとうございます。
綺麗なオネーサンの存在は大事ですよね(^_^)
名前は憶えていませんでしたが、ライト兄弟より先に
有人飛行できたかもしれない日本人の話は何かの本で
読んだ記憶がありました。でも軍部が不明を詫びたとは
驚きです。そんな謙虚な姿勢であったら、戦争は・・・?
by johncomeback (2015-12-18 10:48)
電気ブランはストレートでした
イイ経験でした
by タイド☆マン (2015-12-18 19:46)
★johncomeback さま
軍部の硬直化が敗因になる事例は数多くありますよね。
★タイド☆マンさま
ストレートですか!すごい。私はビールをチェイサーにして飲みます^^;
by ワンモア (2015-12-19 11:19)