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雷撃の神様と言われた男、村田重治と九七式艦攻

 以前、魚雷に関する記事を書いたのですが、今回は「魚雷の神様」と言われた男、村田重治少佐について語ってみたいと思います。

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 村田重治(むらたしげはる:1909〜1942)少佐は、長崎県出身の海軍兵学校の58期生です。おじいさんは戊辰戦争にも参加した士族の家系でした。
 兵学校では「ブツさん」という渾名を付けられています。いつのブーツを履いていることと、仏のような人柄だったからなど諸説あります。
 普段は物静かで、ユーモアたっぷりな明るい性格であったとのこと。
 同期には、
部隊87%の命中率を誇る、「急降下爆撃のエース」と呼ばれた江草隆繁(えくさ たかしげ:1909〜1944)がいます。この二人が開戦の真珠湾攻撃を初めとした数々の緒戦で大活躍しました。

 1930年に海軍兵学校を卒業後、1933年には、霞ヶ浦海軍航空隊の飛行学生を拝命。海軍中尉として任官、1934年に飛行学生を卒業して、千葉の館山海軍航空隊に所属し、翌年には空母「加賀」に乗組します。
 1936年には、霞ヶ浦海軍航空隊の教官として多くの搭乗員たちの育成にあたりました。

◆才能の片鱗?
パナイ号事件で見せた爆撃の腕前
 1937年(昭和12年)の7月、支那事変が勃発。同年の12月に村田大尉は第十三航空隊の分隊長として上海に向かいます。この時の部隊の主力は最新鋭の九六式艦戦で、中国空軍の繰り出すカーチスホークなどの米軍機やI-15、I-16などのソ連機を圧倒し大活躍をしていました。
 この時期に、村田大尉は九六式艦上攻撃機の3機編隊
で、アメリカのパナイ号という砲艦を交戦国の中国艦と誤認して沈没させてしまいます(パナイ号事件)

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1936年から運用された複葉機の九六式艦攻

 高度2,500mからの水平爆撃で撃沈してしまったのですから、その腕は確かだったようですが、国際問題化することになり、日本側はアメリカに謝罪し、賠償金を払いました。
 それにしても、水平爆撃機で一発で命中させてしまうのですから、凄い腕前だと思います。
 村田大尉にはお咎め無しで、その後も作戦に参加していましたが、本土に戻ってからは、1939年横須賀海軍航空隊の海軍練習航空隊の雷撃科目を習得します。爆撃のセンスを認められたのかもしれませんね。

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九六式艦攻の爆撃を受け沈没する「パナイ号」



◆迫り来るアメリカとの対戦
 雷撃科を卒業した村田大尉は、1940年11月に横須賀海軍航空隊の分隊長兼教官に着任します。
 
この航空隊は、航空隊要員の教育・錬成・新型機の実用実験、各機種の戦技研究を担当している部隊で、村田大尉はここで、浅い海面での魚雷発射の実験研究を担当することになります。
 深度の浅い海での魚雷投下。なぜこのような研究を進めているのか?それは、ある重大な作戦が出来るか否かのための実験だったのです。

Cap 696.jpg

 少し遡ることの1940年1月。この時期、山本五十六が中心となって、アメリカとの戦争が始まった場合を想定したハワイのアメリカ海軍基地を攻撃する作戦を立てていました。国力に差があるアメリカとの戦争は短期決戦で、開戦と同時に一挙に決着をつけるべきだと考えていたのです。
 そのためには、破壊力のある魚雷による攻撃で艦船を沈没させてしまう攻撃が不可欠でした。しかし、真珠湾はかなりの浅瀬で魚雷による攻撃は不可能であるという報告を山本五十六は受けます。
 「雷撃が出来ないのであるならば、所定の目的は達成できない・・・」山本五十六は一時は作戦を諦めざる負えないとも思いましたが、参謀の原田実から「研究があれば、困難であったも不可能ではないはずだ」との回答を得ます。
 そこで作戦の決行は、村田大尉たちの浅瀬の雷撃可能な魚雷の開発に委ねられることになるのです。

◆真珠湾攻撃作戦を決定付けた魚雷開発
 
すでに開発していた九一式魚雷は、「改1」として着脱式の木製安定版を導入したことで、高速での落下もできるように改良されていました。今度は、水面突入後の沈下深度をクリアしなくてはいけません。真珠湾では水深12mの浅瀬なのです。今まで必要とされている魚雷の深度は60m・・・。1/6の深度にまで抑えるにはどうしたら良いのか。村田大尉たちは研究と検証を繰り返し、開発に努力します。

 時が経つにつれ、アメリカとの摩擦は悪化し、交戦の可能性が高まってきました。それに伴い、真珠湾攻撃
作戦は現実の様相を帯び、各地で行っている実戦さながらなの過酷な訓練は、事故死も相次ぐほどの真剣で猛烈なものとなっていました。
 作戦決行のために日本を出港するその日は、刻々と迫ってきます。
 1941年が明けても、浅瀬に投下できる雷撃方法は明確な回答が出せず、雷撃隊の隊員たちは「第2射法」という、敵の猛烈な対空砲火にさらされるのは覚悟のうえで、主脚とフラップを下げ、速度を185k/mまで落として雷撃をする方法で訓練を行っていました。しかしこれでは効果的な成果は期待できません。雷撃の前に撃墜されてしまう可能性が高いのです。
 2年近く経過しても、最大速度を保ったままでの浅瀬への投下は技術的にはクリアできていなかったのです。

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九一式航空用魚雷

 しかし1941年の春、空技廠によってついにジャイロを使った安定器の開発に成功します。実験テストの結果、良好な成果を出し、空中姿勢が劇的に改善されたことで、水中突入後の沈度を押さえることに成功。今まで60mは必要だった水深を10m以下まで引き下げることに成功したのです。
 村田大尉たちの実践研究が実った瞬間でした。「これで、真珠湾で戦える!」全雷撃隊員たちは、直ちに今までの訓練を変更し、
より高速な雷撃法に切替えます。
 
 後は、出港に間に合うための九一式魚雷の生産です。1941年8月に九一式魚雷100本を11月5日までに完納するように
川棚海軍工廠に打電が入ります。それは真珠湾に向けての出港の2週間前というギリギリの日程でした。製作所では36時間連続作業を決行し完納させたのです。
 この工場と発射試験場の戦跡は現在も残されています。詳しくはこちらのレポートも御覧ください。

ちょいのりさんのブログ「居酒屋けいば」第826話 片島魚雷発射試験場跡編

 1941年9月、村田大尉は空母「赤城」に配属されます。航空参謀原田実中佐のたっての希望で、雷撃の専門家として村田大尉を真珠湾攻撃のために異動させたのでした。彼はこの時はまだ、アメリカとの戦いや真珠湾攻撃のことを知らされていなかったのです。
 しかし、途中参加ではありますが、海軍一の雷撃の腕前と人柄が高く評価され、彼は超極秘事項であった真珠湾攻撃スタッフとして真珠湾に向けての雷撃法を一任されるのです。



◆真珠湾攻撃の成果とその後の村田少佐
 10月に少佐となった村田氏は、空母「赤城」に乗船、真珠湾攻撃隊の雷撃部隊の隊長としての任務に当たります。
赤城、加賀から各12機(特第1、2攻撃隊)、蒼龍、飛竜から各8機(特第3、4攻撃隊)、合計40機の特別攻撃部隊です。主目標は艦船。
 この時、九七式艦攻は143機参加しましたが、うち40機が魚雷装備の雷撃隊でした。
  12月8日、いよいよ真珠湾攻撃は始まります。第一次攻撃隊は村田雷撃部隊を含めた総勢183機、第二次攻撃隊は171機。合計354機にもなる大規模な空襲でした。

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真珠湾攻撃隊の指揮官 淵田中佐搭乗機

 その村田隊の成果ですが、40本中36本の命中(日本側発表)という驚異的命中率で、大打撃を与えます。後世の米軍側の発表では23本の被弾とのですが、それでも5割を超える命中率が訓練の成果を物語っています。なお投下された魚雷40本のうち、射点沈下が認められたのは1本のみで、これも九一式魚雷の高性能を表しているといえます。
 但し、雷撃は損失率も高く、村田隊の40機中5機撃墜が未帰還、全機が「加賀隊」の九七式艦攻でした。

 この戦死率は雷撃隊の任務の苛酷さを象徴しており、太平洋戦争初期でも30〜50%、戦争末期においては90〜100%の戦死率にも達しました。雷撃隊員の戦死率は他の搭乗員と較べても群を抜いて高かったのです。

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1941 真珠湾「赤城」第4中隊第46小隊1番機 AI-311号村田機


 
用意周到に計画された真珠湾攻撃は大成功に終わり、アメリカ艦隊に大打撃を与えることになります。 
 さて、真珠湾攻撃の後は、村田少佐たちは、南雲機動部隊としてラバウル攻略、ポード・ダーウイン空襲、セイロン沖海戦などで連戦連勝を続けますが、有名なミッドウェー海戦で、母艦の赤城を喪失、空母「翔鶴」の飛行隊長に着任します。その数カ月後、南太平洋海戦にて、帝都空襲を行った米空母「ホーネット」を雷撃後、被弾し、そのままホーネットに突入、自爆しました。1942年10月26日戦死。二階級特進により最終階級は海軍大佐。享年34歳の若さでした。

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1942 南太平洋海戦「翔鶴」EI-301号村田機
「艦これ」に登場する機体はこれですね。


「雷撃の神様」「雷撃王」と言われた村田重治氏。一撃必殺の魚雷の開発と雷撃に命をかけた生涯だったと思います。

<捕捉>
 機番のAI-311、EI-301ですが、AIが「赤城」、AⅡが「加賀」EIが「翔鶴」などを示しています。300番台は攻撃隊、100番台が戦闘機、200番台が九九式艦爆隊を示しています。
 詳しくはこちらも御覧ください。

→真珠湾攻撃隊のマーキングについて調べてみた

<関連記事>
→本日は真珠湾攻撃の日。「トラ・トラ・トラ」の意味は?
→日本の酸素魚雷と航空兵器

→川棚海軍工廠と航空用九一式魚雷

→エフトイズ「九七式艦攻」のデカールについて調べてみた。

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只今、焼酎をゴボウ茶で割って飲んでいます。
美味しくて止まりません、また伺いますので、ごめん!
by Hide (2016-01-25 00:00) 

アニ

艦これに天山村田隊いますよ〜^_^
by アニ (2016-01-25 00:05) 

johncomeback

いつも拙ブログへ nice&コメント ありがとうございます。
特に理由は無いのですが、暫く拙ブログは休止します(^^)
by johncomeback (2016-01-25 13:10) 

ワンモア

★Hideさま
 焼酎&ごぼう茶、どんな味なんでしょう。興味あるなぁ(^^)
★アニさま
 艦これの村田隊ってよく出てきますよね^^
 天山に搭乗して欲しかったです。

★johncomebackさま
 えー、残念。いつも見ているブログが更新されないのは大変残念で寂しいですが、また復活しださるのを楽しみにお待ちしております(^o^)
by ワンモア (2016-01-26 14:34) 

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