◆ガーランドとメルダース
前回の記事の続きになりますが、ここで度々登場する、アドルフ・ガーランド(1912〜1996)についても少し触れておきたいと思います。アドルフ・ガーランドはメルダースより一年先輩に当たります。
コンドル軍団でガーランドの後任としてメルダースが赴任。そして戦闘機隊総監ではメルダースの後任としてガーランドが選出されるなど、二人の立場はいつも近い位置にいました。
撃墜数においても常に二人はライバルで、抜きつつ抜かれつの関係にいたのです。
対照的だったのは、用兵の考え方で、新型のBf109F型が登場した時も、メルダースは武装は軽武装になっても機動性が向上したことを支持しましたが、ガーランドは、重武装主義だったのでF型に対して強い非難をしました。
また、有名なエピソードとして「スピットファイア発言」があります。1940年のバトル・オブ・ブリテンで戦っていた二人に対してゲーリング元帥が爆撃機の直掩任務に関して彼らの希望をたずねるのですが、「Bf109を馬力強化して欲しい」という、建設的ですが優等生的発言のメルダースに対して、ガーランドは「敵のスピットファイアを一個中隊欲しい」と平然と述べたとのこと・・・^^;
まあ発言の背景には色々あるのですが、それにしても二人の性格がよく表れているエピソードだと思います。
◆メルダースの事故死
そんな一言多いガーランドより優等生らしいメルダースの方が、上層部の受けもいいのか、先に出世したのはメルダースでした。
メルダースは、戦闘機部隊のトップに立つ、戦闘機総監に任命されます。もちろん、実績も史上初の100機撃墜という文句ないものでした。
その少し前には、交際を続けていた女性との結婚もあり、1941年という年は、第一次世界大戦の撃墜記録を超え、前人未到の100機撃墜を果たし、軍最高の騎士鉄十字章を授与、そして結婚と、メルダースにとって最高の年になるのでした。まもなく1942年が来るという、11月までは・・・。
11月17日の朝のことでした。当時の上級大将エルンスト・ウーデットが拳銃自殺をします。バトル・オブ・ブリテンの戦いや航空機生産計画の失敗の責任を取らされて失脚したことが理由のようですが、航空省内での権力争いがその背景にありました。
彼は第一次世界大戦の生き残ったパイロットでは最高の撃墜数を記録していて国民的英雄でしたので、自殺とは発表しないで新兵器の開発中の事故死ということで国葬が行われます。
国葬が行われる11月21日にはメルダースも参列することになりますが、彼が視察で滞在していたクリミア半島は悪天候で飛行が困難でした。
前日にはヘルムート・ヴィルベルク空軍大将の乗機がザクセン州ドレスデンで墜落し、乗員全員が死亡したとの嫌なニュースも入っていたため強行離陸は見送られ、やがて21日の国葬当日を迎えてしまいました。
それでも、無理をしてHe111爆撃機に搭乗してベルリンに向うのですが(無理をして向かった理由は、上層部に直訴をする予定もあったともいわれています。)、途中でエンジンが停止、強烈な悪天候の中での緊急着陸に失敗し、機体は大破してしまいます。
シートベルトをしていなかったメルダースは前方に投げ出され即死してしまいます。
空の英雄のあまりにもあっけない最後でした。
メルダース大佐の国葬も11月28日に行われ、彼の後任にはガーランドが任命されます。
1941年の最後は、これから暗雲たなびくドイツを象徴するような不吉な出来事が全土を覆うことになるのでした。
◆メルダースの死後
その後、数年間の激闘の末、第二次世界大戦はナチス・ドイツの崩壊で終結します。ガーランドたちドイツ空軍のパイロットたちは大きな犠牲を払いつつ最後まで戦い続けました。
メルダースが残した100機超えの撃墜のスコアは戦争の激化と共に一つの通過点となり、なんと100名を超えるドイツ軍パイロットがメルダースの記録を乗り越えていくことになります。更に200機超えは14名、300機超えはバルクホルンとハルトマンの二人が記録することになりました。戦争の激化を物語っているスコアだと思います。
それでもメルダースの人気は戦後も高く、戦後の西ドイツ空軍第74戦闘航空団の部隊名に継承されたり、西ドイツ海軍のミサイル駆逐艦の名として採用されることになりました(1969年就役〜2003年退役)。
この駆逐艦は3隻製造されましたが、それぞれドイツの陸・海・空の名将の名前をつけるということで、軍人として徳の高い、海外にも知られた名前で政治的な軋轢に底触しない人物(ここ重要)という条件で選ばれたのです(ロンメル、メルダース、リュッチェンス)。
◆ゲルニカ爆撃とコンドル軍団
戦後かなり経っての1998年4月。時の政権のヘルムート・コールCDU内閣はコンドル軍団参加者の名誉剥奪法を制定します。
理由はゲルニカ爆撃(1937年4月26日)を行ったことでした。
焼夷弾を使用した市民の殺傷は、世界初の都市無差別爆撃とされ、平和の象徴、反戦のシンボル的場所とされ、世界中の注目を浴びるようになったのです。
とはいえ、当時のスペインは共和国軍と反乱軍の双方がお互いの主要都市の空爆を行っていたのです。目的は敵側の市民たちの士気の崩壊が目的でした。
主要都市が空襲されれば国民の士気が崩壊し、戦争の継続が困難になるはずだという思惑があったのです。しかし、その結果はまったくの逆で、士気が崩壊するどころか、敵愾心をより激しく煽ることになります。これには双方の軍が困惑します。当時の空爆は規模が小さく、その被害も小規模ということもあったのか、その効果はまったくなく、更にはスペイン内部での戦いですので、戦後のことも考えて重要な兵器産業都市は大規模な爆撃が控えられていました。むしろフランコ派の方が爆撃を抑制していたのです。
そういう意味で市民殺傷による士気崩壊を狙う作戦は逆効果ということはお互いが分かり始め、その代案として敵の輸送網を分断させる計画に出たのでした。
ゲルニカという都市は、交通の要衝です。こうした戦線後方の輸送網破壊作戦の一部としてゲルニカは爆撃されたのです。共和国側の退却路を断つことがコンドル軍団が立てた作戦でした。
ですので、市民の無差別殺傷が目的とは言えませんでした。その効果はないという判断が既に出ていたからです。しかし交通網を麻痺させる精密爆撃が出来るまでは、技術的には進歩しておらず、市街地を破壊して交通を麻痺させる計画が立案されるのです。
これが結果的に都市の壊滅と多くの死者が出たという結果につながるのです。
ですので、ドイツ空軍(コンドル軍団)側としては、非人道的な無差別殺人をしたという自覚はありませんでしたし、実際の死者も300人前後でしかありませんでした。
イタリア軍が行ったバルセロナ爆撃では一般市民、1300人が死亡、2000人以上が負傷という大きな被害が出ているのです。
ドイツ側には非人道的行為として、国際的に非難される自覚がなかったのは事実だったのです。
しかし、たとえ300人ではあっても死者が出ているのは事実ですし、ピカソがそれに怒り、「ゲルニカ爆撃」を題材にした大作を発表することはプロパガンダと非難する訳にはいきません。
世界的には、無差別殺人、非人道的な事件の象徴として認知されている事実を受け、1998年、ドイツ国会ではゲルニカ爆撃の謝罪を全会一致で決議し、自らの手でこの「コンドル軍団」の参加者の名誉剥奪を行うこにしたのです。
こうして、「コンドル軍団」は「ナチス」同様、ドイツにとっての忌まわしい記憶、悪の象徴のようにされました。
◆英雄メルダース、その名誉の抹消
しかしメルダース自身は、ゲルニカ爆撃に関しては、爆撃の翌年にコンドル軍団に参加したので、直接関わってはいないですし、国民的英雄であったため、事実上の例外扱いをされていました。
第74戦闘航空団の名称は据え置かれ、駆逐艦「メルダース」も2003年の退役まで改名される事はなかったのです。
ところが、政権が左派の社民党内閣(SPD)になった時、ペーター・シュトルック国防相は、メルダースが自らコンドル軍団に志願していたことを問題視して、過去にメルダースへ与えられていた全ての名誉を剥奪し、第74戦闘航空団の名称を取り消す決定をするのです。それは、1998年から7年も過ぎた2005年のことでした。
「法はちゃんと実行しないといけない」とする、融通の聞かない、ある意味ドイツ人気質な人柄がそうさせたといえます。
この措置に、あまりにも行き過ぎだということで、政府内部でも反対意見が出て、空軍関係者のみならず、100名以上の退役軍人や国民が反発するのですが、強引に実行されてしまいます。
同年の総選挙で社会民主党(SPD)がメルケル党首のCDU(キリスト教民主同盟)に僅差で惜敗するのですが、それはこの件が一因となったとも言われています。
ドイツ社会民主党といえば、日本の社民党とも非常に懇親にしているといえば、思想的立場がお分かりかと思います。今、移民問題でもめているメルケル政府はあれでも中道路線なのですね。
ドイツがこれから先、どのような方向へ向かうかは分かりませんが、ドイツなりのけじめを示したのでしょう。それに対してはどうこう言うつもりはありません。
ただ、ドイツ政府の成した行為によって、メルダースの名誉と墓所も冒涜され、生きている遺族たちは再度苦しめられることになりました。
他のパイロット同様、いえ、ドイツ空軍全パイロットたちの先頭に立って国家のために尽くしたのに「コンドル軍団」に一時所属していたという理由で、犯罪者扱いをされることは。
しかし、周りはどんな評価をしてきても、ヴェルナー・メルダース自身は、どこまでも立派な軍人であったと思います。最後に彼が部下に言った言葉を紹介してこの記事を終わることにしましょう。
「たとえ敵国人でも民間人を攻撃してはならない。」
(イギリス本土を攻撃中に部下が列車を銃撃したことについて、帰投後、軍事目標とは何かを厳しく教え込み、それ以外の目標には手を出すなと命令した)
https://twitter.com/molders_bot/status/692485579624308739
以下の書籍やブログを参考にさせていただきました。
・モデルアート別冊「メッサーシュミットBf109B〜F」
・ドイツ空軍エース列伝
・ヴェルナー・メルダース(Wikipedia)
・アドルフ・ガーランド(Wikipedia)
・ゲルニカ爆撃(Wikipedia)
・mixiみんなの日記「ドイツ第三帝国軍人シリーズ15」
・いろいろクドい話「爆撃作戦としてのゲルニカ」等など
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