最近、零戦の里帰り飛行とか、実機の実物大模型の製作のニュースを目にしますが、そういえば、昔、宇都宮の富士重工にも実物の「疾風」が置いてあったという話を思い出し調べてみました。少年時代に購入した「丸メカニック」にも詳細な記事が確か出ていたはず。
当時の値段で400円(1978年刊)
未だに手元においてあります(*^^*)
今回は、日本の戦闘機の中でも「最優秀機」としてアメリカから称された「疾風」の実機にまつわる話を記事にしてみます。かなりマニアックな話になりますが(;^ω^)
四式戦闘機「疾風」〜SUBARU名機カレンダーより
◆日米の戦闘機のなかでも最速・最高の性能を持つと称された「疾風」
「疾風(キ-84)」は、1943年に初飛行した中島製の戦闘機です。20mm×2門、12.7mm×2丁の重武装、最大速度624km/h/6,500mをマークしたのは、2,000馬力の「誉」エンジンのパワーによるものも大きいですね。
戦後のアメリカのテスト飛行では、687km/6096mも記録しています。太平洋戦争後期からの登場とはいえ、総生産機数は零戦、隼につぐ第3位の約3,500機にも及んでいます。
しかし現在、世界に存在しているのは疾風はなんと1機のみとのこと(パーツや不完全体は除く)。零戦の現存機が30機近く、隼の現存機が5機とのことですので(2015年現在)、非常に非常に貴重な1機なのです。
◆現存する「疾風」の運命をたどる
今、存在している唯一の「疾風」は、昭和20年1月、フィリピンに進攻した米軍が鹵獲し、完全修復した後に機能テストに用いられたものです。
いわば文献で良く見かける疾風の最高速度をマークした機体ですかね。この疾風は、武装を外し100オクタンのハイグレードガソリンを使用した状態での記録なのですが、生産された疾風の中でも最も最速記録を出した機体ともいえます。
その後の「疾風」はこのような経歴を辿り今に至ります。
米軍情報センター
↓
プレーンズオブフェイム航空博物館(エド・マロニー氏)
スクラップ状態をレストア飛行可能な状態に。
↓
オーナーがドン・ライキンス氏に
↓
1973年
日本人実業家後閑氏に買い取られ、陸自宇都宮飛行場へ
航空自衛隊入間基地で里帰り飛行
その後、富士重工宇都宮製作所で保管維持
↓
1985年ごろ?
京都の嵐山博物館(1991年に閉館)
↓
1991年ごろ?
和歌山県温泉旅館白浜御苑付属の零パークへ(2002年に閉鎖)
(格納だけで展示はされていない様子)
↓
知覧町が取得(約1億円)、知覧特攻平和会館に展示、今に至る。
情報が錯綜してまとめるにに苦労しましたが、上記のような経緯を辿っているようです。
軍が放置してスクラップ状態にまでになった「疾風」を飛行可能な状態までレストアをし、日本でも飛行を行った「疾風」ですが、その後、色々な場所へ移されていくなかで、すっかり飛行が不可能になってしまったとのこと。
野ざらしで部品も盗まれてしまった状態に対し、ドン・ライキンスは深く後悔。本機の復元を行ったマロニー博物館も「他の機体数機との交換で良いので還して欲しい」とまでコメントを残しているようです。
このコメントは事実のようですので、この事に対して「日本人として申し訳ない」「野ざらしされた疾風が哀れである」「歴史的価値のあるものを大事にしない」「飛べなくするくらいなら日本に返還しない方が良かった」など様々な意見が出されています。 どうも飛べる機体を飛べなくさせてしまったことに、エド・マロニーさんたちのように怒っている方が多いようですね。いやホント、その通りだと思います。申し訳ないです。
一度はスクラップ状態になって現存する機体が失われてしまうところを、飛行状態にまで復元してくれたマロニー氏やライキンス氏には本当に感謝と申し訳ない気持ちで一杯です。
この飛行機が飛べなくなってしまったなんて・・・。
◆「疾風」が飛べなくなったのはどこで?
さて、ヤフー知恵袋などでは、せっかく飛べる飛行機を駄目にしてしまったことへの批判意見が満ちています。某工場敷地内(完全に富士重工のこと)で野ざらしで放置され、部品も紛失、盗難もあったようだとの書き込みも(ヤフー知恵袋「四式戦疾風は何故飛べなくなったのか?」)。
富士重工にかつて展示してあった「疾風」(丸メカニックより)
が、もと富士重工に勤めていた立場の人間から援護の反論をさせていただきます。
この人が根拠にしている「丸メカニック」の取材記事を良く読むと分かるのですが、野ざらしではなく、芝生の上に「丁寧にカバーがかけられ」、元疾風の整備士の熱心な保守整備に心があたたまると取材者が記しているのです。全然、話が180度違うのです。本人も「丸メカニック」を読んでコメントを入れているはずなのにどうしてこういう努力を無にする話になるのでしょう?
1973年に山手不動産社長の後閑氏に譲渡する目的もあって里帰りした「疾風」は航空自衛隊の入間基地でライキンス氏自身の操縦によって公開飛行を行い、宇都宮飛行場に空輸され、富士重工業の整備格納庫に収容さたのですが、当時の富士重工業の整備課には中島飛行機時代に疾風の整備に関わった権田登氏という方がまだ在職していたのです。しかも、富士重工の整備課長には、疾風の生産に従事した鈴木栄氏が、そして整備部長には元飛行第20疾風戦隊長の村岡秀夫氏もいました(「丸メカニック『疾風』より)。
これだけの知識と経験を積んだ方々がそろった場所で、世界に一機しかない「疾風」を野ざらしに放置する訳がありませんよね。しかも、オーナーの後閑氏が亡くなった後も「疾風を守る会」の希望に応えるべく、適切な補修部品もない状態で難渋しつつも保守整備を続けてくださっていたのです。
丸メカニックの貴重な写真だけどぱっと見、
野ざらしでバラバラに晒されている無残な姿にみえないことも。
おそらく、写真を撮影するために、丁寧にかけられているカバーを外し、細部を紹介するために各種パネルや点検孔を外したこれらの写真が、紛失や盗難にあった無残な姿だと勘違いしている可能性がありますね。ちゃんと記事の内容を読んでほしいな(●`ε´●)
しかも係留してある富士重工の敷地内は防衛産業に携わる関係者以外は立ち入り禁止内ですので(となり自衛隊だし)、そこで一般人が侵入しての盗難や紛失などは考えられません。
富士重工業宇都宮製作所では、後関氏から暫くの間保管することを依頼され、仕事の合間に日常的な整備の実施、定期的なエンジンの始動などを行いつつ大切に保管していたのです。
しかし所有者である後閑氏が亡くなったことから、京都の嵐山博物館に譲渡されることになりました。この点、後関氏のご遺族の事情があったかは定かではありませんが、とにかく宇都宮製作所では搬送にあたって権田氏を中心にして、輸送に際しての必要な分解を既定の部位で行い、部品一点一点、番号を記しマーキングして大切に京都へ送り出したのです。
この時点まで飛行可能な状態は維持されていたといいます。
しかし、京都の嵐山美術館では個人オーナーのために飛行可能な状態に保ち続ける維持費などもなく、明確な維持方針も定まらないまま、部品の劣化が進むことになります。
その後は輸送の際に邪魔だからといって飛行機の構造上の要である主翼の桁を切断して運んだとか、盗難や部品が好き放題盗まれたなど、真偽はともかく無残な話が伝わってます。
ただ、思うのですが、日本とアメリカでは、航空法の安全基準も大きく異るので、色々な審査によって飛ぶことはかなり限定され、アメリカの用に好きな時に飛べることはなく、いずれは飛べなくなることは運命だったように思うのです。
先日、里帰りした飛行可能な零戦も、国内の安全基準や審査の関係で、日本で飛行するにはかなり困難な様子。維持費は年間2000~3000万円とも。個人の財産で維持していくには厳しいですね。
零戦里帰りプロジェクトHPより
国内の厳しい事情のなか、飛ぶことにそんなにこだわらなくても正直、良いように私は思うのです。それに飛行可能な状態を維持するために次々と新しい部品に交換させられていくのもどうなのかなぁと考えてしまいます。それによって外されてしまう部品にも歴史的価値があると思います。 飛行可能な零戦もエンジンはまったくの別物ですし、「誉」エンジンではない疾風の飛行はちょっと・・・。
飛ぶことに拘るなら、外見だけ同じにしたまったくの新造機の方が結果的にコストは安いかもしれません。
飛行可能なBf109G-6。G-2はクラッシュして飛行不可能に
あと、飛行を願う方々の色々な意見を読んでいて一番思ったのは、実際に操縦するパイロットさんの安全についてはあまり考慮していないんじゃないかなぁと思いました。
人の命がかかっているその機体が「何十年もの前に飛んでいたものであり、修復したものである」という点はもっと考慮すべきだと思います。機体は修理できても失った命は戻らないのですから。
アメリカはオーナーが自分で飛んで、墜落しても自己責任で済みますが、日本ではそうはいかないでしょう。日本ではちょっと空に上がると見渡せば誰かの土地、そして住宅街という事情もあります。墜落するにしても大変です(自衛隊機は脱出する際には機体を住宅街を避け、できる限り海まで誘導し、船舶がいないかまで確認してからベイルアウトします。そのため脱出が遅れ殉職した人たちも)。
リノ・エアレース。ガンガン改造して飛んでいます。
大戦機が再び飛ぶのは夢がありますが、何十年も前の機体を日本の地と空で飛ばすには、かなり高い障壁があるように思います。それに唯一現存する貴重な機体を事故などで喪失する可能性があるのはあまりにもリスクが高いと思うのです。
個人的には、飛行可能な飛行機は、どうぞアメリカで。そして飛行が不可能な飛行機は日本で買い取って、博物館で公費で国や自治体が管理するのが一番良いように思います。
日本の個人の財力ではどうしても限界がありそうです。保存状態が悪いと不満な方は是非、寄付をしてあげてください。
エアレースに出場したかつての大戦機F-8F 歴史的価値?関係ないね。オーナーは俺だの世界です(;^ω^)
大戦機を再び、平和になった日本の空で飛ばしてやりたい。それはミリタリーファンなら誰もは思う夢ですが、現実を考えると、新しい部品にどんどん交換させられるより、無理をさせずに、もう休ませてあげてもいいかなぁとも思うのです。
飛べなくなった飛行機でも、その姿、佇まいを見るだけでも、その機体の運命やその時代の様子、技術に携わってきた人々の努力など、心に伝わるものはありますので・・・。
そして今の若い世代の方々が、技術に命を懸けて挑戦した歴史を体系的に学ぶ施設を国が運営するような考えがあってよいのではないかと思います。
四式戦闘機「疾風」〜SUBARU名機カレンダーより
私は、展示機、実物大模型、そして絵画、模型でも十分です。
以下は参考にした他の方のHPやブロクです。
→四式戦闘機「疾風」 唯一現存機体の里帰り記録(富士重工時代)
→京都嵐山美術館時代の「疾風」
→白浜御苑零パークへの移動作業についての証言(主翼桁切断はされていない)
→ヤフー知恵袋 知覧の平和記念館にある四式戦闘機 疾風 ですが、もう飛べないと聞きました。これは本当でしょうか?(主翼桁切断の証言あり)
こうして調べてみると、2chやヤフー知恵袋などは、単なる噂とか、ちゃんと調べないで書いている人も多いように感じますね。
<関連記事>
→零戦22型が里帰り!現在飛行可能な零戦は?
こんな記事もどうぞ
2016-09-10 23:12
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コメント(8)
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自分はまったくその分野にはうといですが、昔の実践戦闘飛行機は、たとえ完全に保守ができていても、今飛ばなくてもいいのではないかと思います。知覧の施設で、このまま置いておけるなら。
by 足立sunny (2016-09-10 23:47)
一部分の情報を切り取っての批判は嘆かわしいですね・・・
とは言え譲渡移譲盗難法律縛りでみるみるうちに羽をもぎ取られていくってのは可哀想・・・(可哀想って表現は失礼ではありますが)
国がこういうのを集約する博物館、それ大賛成です!^^
案外野ざらしの名機やらさび付いた名車両がありますしね(勿体ないのいっぱい点在してる)
by ちょいのり (2016-09-11 02:12)
>カバーを外して
この写真では 説明文をよく読まないと
盗難にあった と思ってしまいますね
by タイド☆マン (2016-09-11 04:34)
エアレースを見ていると、
どうしても、昔の戦闘機の
パイロットってこんな感じだったのかな?とか思っちゃいます。
by caveruna (2016-09-11 09:54)
拙ブログへのコメントありがとうございます。
会津鉄道の「芦ノ牧温泉駅」はネコ駅長で有名ですが、
駅前にある「牛乳屋食堂」のラーメンとソースかつ丼が
絶品です(^^)
by johncomeback (2016-09-11 16:49)
★足立sunny さま
こんばんは〜。そうなんですよね。無理はさせたくないなぁというのが正直な気持ちです。
★ちょいのりさま
明治以降の産業の遺跡や遺物を一同に集めた博物館があるといいなぁって思うのです(^^)
★タイド☆マンさま
ねえ、写真だけで勘違いしている可能性ありますよね。
★caverunaさま
エアレースって日本ではなかなか流行りませんなぁ。
色々と規制が厳しいのかしら。
★johncomebackさま
「牛乳屋食堂」・・・そういえば聞いたことがあります。
車で通るから見逃していたかも
これから秋の時期だから楽しみです(*^^*)
by ワンモア (2016-09-11 19:30)
以前、カキコした様に爺の故父は、大戦中立川の陸軍
航空技術研究所に居り、四式戦闘機「疾風」のオイルラジエターの冷却効率の計算、風洞を用いた高速翼機の設計等にに従事しておりました。
ご存知の様に疾風は戦後アメリカでハイオクタンガソリンを用いて、素晴らしい性能を発揮したと有ります。
今からはもう遅いのかもしれませんが、疾風は昔の日本
機の最優秀機だと思っています。
by bpd1teikichi_satoh (2016-09-17 19:26)
★bpd1teikichi_satohさま
私が飛行機に初めて惚れたというか、痺れたのは、「疾風」の翼なんです。中島飛行機の翼端のデザインを見た時にビビビッと来るものがありました(*^^*)
by ワンモア (2016-09-18 01:57)