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平良文と東郷平八郎の意外な関係

 前回の話の続きを。

◆関東、平家の祖の平良文

 平 良文(たいらのよしふみ)って方をご存知でしょうか。平安中期の武将で、桓武天皇の四世にあたります。この平良文のお兄さんである平良将(たいらのよしまさ)の息子に有名な平 将門(たいらのまさかど)がいるのです。

 平良文は関東に居住し67歳で没したそうなのですが、彼には5人の子供がいて三男から千葉氏、上総氏、秩父氏、川越氏、江戸氏、渋谷氏などが、そして五男の平忠光から、三浦氏、梶原氏、長江氏、鎌倉氏などが出ていています。
 千葉とか、秩父、川越、江戸なんかはもう地名となっていますよね。いや、地名が先なのか。
 ということで
関東では非常に影響を与えた人物で、この良文流の坂東平氏を坂東八平氏ともいいます。子孫たちは、鎌倉幕府を創立に協力した者たちも多く、有力な御家人として勢力を拡大していきます。
 ちなみに『平家物語』の「平家にあらずんば人にあらず」の平家の人々は伊勢平氏です。 この平良文からこんなに多くの御家人たちがつながっているということですね。家系って面白いです。
 さて、前の記事で登場した全国渡辺さんの祖にあたる渡辺綱のお父さん、源 宛(みなもとのあたる)との一騎打ちが『今昔物語集』に残っています。

平良文と源宛の馬上の一騎打ちの話
 〜源宛と平良文と合戰ふ語:今昔物語集巻二十五第三〜

 『今昔物語集』には源宛(箕田宛)との一騎討ちの説話が収められている。

 これによると源宛との一騎討ちは以下のようなものであった。
 今は昔、東国に源宛・平良文という二人の武士がおり、二人の領地は荒川を隔てて近いところにあってたびたび家来たちが小競り合いをしていた。そのうちに家来同士ではなく二人で一騎討ちをしようという話になり、お互い家来を引き連れて荒川の河原に乗り込み、家来には手出しをしないように命じて前へ進み出た。
 はじめに源宛は平良文の放った矢を軽くかわし、次々と射られる矢を刀で打ち落した。
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 平良文も負けじと源宛が放った矢を軽くかわして次々射られる矢を刀で打ち落し、二人の素晴らしい技に敵味方関係なく喝采が送られた。
 二人は一歩も譲らず、戦いが終わると互いに駆け寄って健闘をたたえ合い今後は助け合って地方の開発に尽くすと誓い合ったという。

 この「今は昔」という言い回し、良いですね。今昔物語って感じです(^^)。この渡辺綱のお父さんの源宛なんですが、若干21歳でこの世を去ってしまいます。息子の成長して活躍する姿を見ることはなかったんですね。残念。でも21歳でお父さんって昔の人の人生はすごい早いですね。

◆妙見菩薩信仰と平良文

 
この平良文ですが、実は戦に負けて自害寸前まで追い込まれたこともあるのです。
 有名な平将門が、叔父さんの国香と争うと、良文は将門に協力して一緒に戦うことになります。今の群馬県高崎市の染谷川付近で苦戦をし、良文勢はバラバラになってしまいます。
tuk_hosi.jpg 気がつくと良文に追従してきる武者は7騎のみ。もはやこれまでと、自害する場所を求めてさまよっていたところ、突然不思議な声が聞こえ、その声に誘われるままに行くと寺院が現れてきます、その寺院の寺僧によると、この寺は「妙見寺」という北斗七星の化身・妙見菩薩を祀る寺院であり、良文が妙見菩薩に選ばれた者であるといい、七星剣を渡されたとのこと。
 また寺僧の言葉の通り、その証拠として良文の体には月と星の印が浮き出ていました。

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 この出来事以降、妙見菩薩の加護を受けた良文・将門軍は勝利を重ねて坂東八カ国を討ち据えることができました。
 良文はこの乱中に、北を目指して陸奥守、鎮守府将軍として陸奥国胆沢に赴任していくのです。一方、平将門の方ですが、凶悪の心をかまえ神慮に憚らず帝威にも恐れなかったため、妙見菩薩は将門を離れ、良文の元に渡ったという逸話が残されています。
 
 この件があって、平良文の妙見菩薩への信仰は篤く、彼らの子孫が各地に勢力を拡大していくにつれ、妙見信仰も全国へ広がりを見せることになります。
 特に千葉氏にとっては一族の結束を固める意味でも妙見信仰は彼らの中心でした。
千葉市の千葉神社では、代々千葉宗家の元服式が行われていました。

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千葉市の千葉神社。千葉氏も平良文流の家系です。

◆子孫たちは薩摩の祖にもなる
 
 ちょっと驚きだったのが、この良文流の秩父氏のさらに分家の渋谷氏。相模渋谷氏と薩摩渋谷氏に別れて、鎌倉の中期になんと九州の薩摩に移住するのです。
 これが、薩摩東郷氏、祁答院氏、鶴田氏、入来院氏、高城氏らの祖となるのですが、この薩摩東郷氏の流れを組むのが、東郷平八郎なんですね。

420px-Tōgō_Heihachirō 東郷平八郎といえば、先日、運の良い人の例で取り上げてきた人物。原宿の東郷神社にも参拝してきたばかりでもあります。
 そして、平良文のゆかりのある群馬県の妙見寺は、昨年の大晦日に千葉氏のルーツを訪ねようということで、元上司の人と訪れたところ。いやあ、意外な所で結びつくものです。

 特に趣味で、千葉氏や妙見信仰を調べていて、東郷平八郎の日本海海戦などにも興味がある知人さんは「つながっているなぁ〜」としきりに感心していました。
 別々に興味のあるものが思わぬ形でつながりを見せると妙に感動しちゃいますよね。


◆私たちはみんなどこかでつながっている。

 この平良文という方。戦や病気で命を落としていたら、このような歴史にはならなかったし、今いる多くの人々が生まれてこなかった訳ですから人の不思議ってまざまざと感じます。
  東郷平八郎も運の良い人でしたし、この平良文も自害する寸前で助かっていますので、運が良いといえると思います。
  
 ちょっと計算してみると、自分には必ずお父さんとお母さんがいて、そのお父さんとお母さんにも二人の父母がいます。そして更にその4人のお父さんとお母さんにもそれぞれの・・・と考えて行きますと、
10代遡るだけで512人のお父さんとお母さんが必要になるんですね。このうち一人でも欠けていたら今の自分は生まれて来なかったわけです。
 これが25代も遡ると戦国時代くらいになって当時の日本の総人口と同じくらいのお父さんとお母さんの縁が必要になります。
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 うーんすごい。そう考えると今の日本人は先祖を遡ると必ず何処かで縁があるって思って間違いないかもしれませんね。
 天皇家って現代に必要なの?って思う若い方もいると思うし、海外から見るととても不思議な感じがあると思うのですが、私たちの先祖を辿っていくと、このような形でどこかで天皇家の血筋とつながることになるので、天皇家って「家」という象徴、私たちのルーツという重要な存在のように思うのです。
 「自分たちは天皇家という最も古い家を中心にしてみんなつながっているんだ」って。これが人類のルーツまで深めていくと「人類みな兄弟」という認識にまで昇華できるのかもなんて。
 もちろん、この記事を見ていただいているブロガーの皆さんとも意外なところでご縁があるかもしれませんね(^^)。
Cap 270.jpg


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コメント 4

kohtyan

千葉神社は、豪壮な社殿ですね、行ったことはありませんが、
千葉氏とご縁の深いお社ですね。
千葉県の名称は、千葉氏から執ったのでしょうね。
by kohtyan (2017-06-01 11:38) 

johncomeback

拙ブログへのコメントありがとうございます。
道民の西洋わさび(山わさびと呼びます)好きを良くご存知ですね。
東北の地場産品販売所等でも偶に売っているので見つけたら必ず
大量購入し、擂って醤油を加え瓶詰にして冷凍保存しています。
炊き立ての白いご飯に乗せて食べると最高です。「北海道物産展」
で売られている「山わさびの瓶詰」は中味が辛味大根だったりします。
by johncomeback (2017-06-01 15:19) 

caveruna

昔、父が家系図作ってたな~
でも家系図だけなので、何をしていた人なのか?とか、
そういう話は?で・・・
by caveruna (2017-06-01 17:51) 

ワンモア

☆ kohtyanさま
 千葉神社はすごい立派な神社で千葉氏がいかに大きな力を持っていたかが窺い知ることが出来ます(^^)

☆johncomebackさま
 いつかのブログの記事を見て記憶しておりました(笑)。
 そして、johncomebackの記事を見て興味が出て、それから私も山わさびが好きになりました(^^)

☆caverunaさま
 今回は、良い話で終わらせたかったので、あえて触れなかったのですが、昔から家系図って、箔をつけるために改竄は当たり前に行われていたんですよね(;^ω^)
by ワンモア (2017-06-01 18:33) 

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