SSブログ

海に不時着した搭乗員たちを救え!ドイツ海難救助隊ゼーノートディーンスト〜その1

 戦争は、敵味方で殺し合う残酷なものですが、その戦場の中でも武器を取らず、敵味方関係なく救助に命を賭けた人々がいました。今回は、ドイツのゼーノートディーンスト(Seenotdienst:海難救助部隊)の話を。

Cap 10.jpg
書籍にもなってます
 1940年7月。ドーバー海峡を挟んで向かい合うイギリスとドイツに占領されたフランス。ダンケルクの撤退という史上最大の撤退作戦の後、戦争の舞台はイギリス上空へと移ります。通称”バトル・オブ・ブリテン”です。
 数多くの戦闘機、爆撃機たちが攻撃を受けたり撃墜されますが、中にはヨーロッパ本土にたどり着く前に洋上に不時着する機体も多くなってきます。第26戦闘航空司令団のアドルフ・ガーランドは、落下傘で脱出するよりも、なるべく不時着水することを勧めます。Bf110や爆撃機には、搭乗員が長時間海水に浸らないようにゴムボートが装着されていたのです。
 ドーヴァーから北海の冷たい海水は、20分から90分で意識を失うほどの低体温症をもたらします。救助は一刻も早く行われなければなりません。パイロットら搭乗員たちは無事に着水できたとしても、冷たい水の中では生存は難しいのです。
 この洋上に着水した搭乗員たちを敵味方関係なく救助に当たったのが、
ドイツの海難救助隊、ゼーノートディーンストでした。
Bf110.jpg
エデュアルド 1/72 Bf 110C-6 リミテッドエディションより
ゴムボートが装着され尾部が延長されているのが分かります。


設立は民間会社の協力の下に1935年に設立

 この海難救助部隊の設立は1935年にさかのぼります。ドイツ北部の都市キールの港に駐在していたドイツ空軍の補給将校のコンラート・ゴルツ中佐は、北海とバルト海での活動を意図した航空救難組織の編成を命じられます。
 地元の民間の救難艇協会や海難救助会との協力を取り付け、民間登録された航空機を使用し、軍と民間の双方からの人員で構成された混合組織を設立します。
 やがて、戦争の可能性が増してきた1939年には、大規模な救助演習を行います。これに伴いドイツ空軍も専用の航空救難水上機を調達することを決定、ハインケルHe59を採用します。
 機体は目立つように白塗装を全面に施し、赤十字のマークを付け民間登録番号を付けます。
He59.jpg
ハインケルHe59 地味ですが1943年まで活躍します。
C-1型が海難救助型で投下用の救命ボートを6隻も搭載できました。

 このHe59は14機が調達され、救急機器、電熱寝袋、人口呼吸装置、水面に降りるための伸縮梯子付き床下ハッチ、ホイスト、信号機器、全ての機器を収納する保管庫を装備されました。そして多種多様な小型水上艇も航空救難部隊の指揮下に集められることになります。

最初の本格的な任務は、敵国のイギリス搭乗員たち

 さて、最初の大規模で本格的な航空救難活動は1939年に12月18日に行われます。それはなんと敵国の搭乗員たちでした。爆撃任務を受けたイギリスのビッカース・ウェリトン中型爆撃機24機が、帰還の途中で士気盛んなBf109、Bf110の攻撃に遭い、半数以上が北海洋上で撃墜されます。ドイツのゼーノートディーンスト所属の救命艇がHe 59と協力して20名ほどのイギリス空軍搭乗員を凍るような海から救助しました。
Vickers_Wellington.jpg
ビッカース・ウェリトン 乗員6名の爆撃機

 1940年にデンマークとノルウェーがドイツの侵攻を受けると、任務する沿岸が拡大し、
ゼーノートディーンストの活動範囲と拠点は拡大していくことになります。
 最前線では旧式化しているドルニエDo18も装備に加え、彼らの活動範囲は広がっていきます。地元の救難協会もほぼ
ゼーノートディーンストに協力してくれることになりました。
Dornier_Do_18.jpg
ドルニエDo18。大陸国家ドイツですが、意外と水上機が多いのです。

 1940年にオランダとフランスを侵攻すると更に多くの救難基地が運用可能となり、7月には正式にドイツ空軍に編入されることになります。多くの民間人は救難活動には協力的で、1940年から1945年の間にオランダの救命艇は1,100名の船舶の乗組員と航空機搭乗員を救助しました。

 さらに1940年の10月には航空機の不時着が多発する水域に、予めドイツ側によって海難救助ブイが設置されます。ブイは4人の男性を収容でき、毛布、乾いた衣服、食糧、水、フレアなどが備えられていました。黄色に塗られ視認性の高いこのブイは、対峙する両陣営の
不時着水した搭乗員たちを引き寄せました。ドイツのイギリスの救命艇はこのブイを巡回し、どちらであれ救助をしましたが、敵側の兵員は当然の如く捕虜となりました。

ゼーノートディーンスト.jpg
救命浮船の装備品の一例


救助支援が遅れていた連合国

 さて、このドイツの体制に対し、
意外なことに、イギリスやアメリカの方が救難活動の組織体制が遅れていたのです。大戦初期の2年間、イギリスはドイツのような航空救難部隊を組織することはせず、僅か28隻ほどのクラッシュボートなるものが用意されたに過ぎませんでした。1941年の2月から8月の半年間などは、北海やイギリス海峡に不時着水したイギリスの搭乗員1200名のうち444名が救難艇などで救助されたのですが、そのうち78名はドイツ側のゼーノートディーンストに救助されていたのです。海に落ちて4割近くの生存率で、うち2割近くがドイツに救助されるなんて皮肉なものです。

 
バトル・オブ・ブリテンでも、スピットファイアやハリケーンなどのイギリスの戦闘機には救命浮船は搭載されておらず、不時着水した彼らは、低体温症にかかる命の危険の中、救命胴衣のみで味方の救助を待つしかありませんでした。彼らを救いにきてくれる可能性が高いのは敵国であるドイツ海難救助隊だったのです。

 
1942年9月に、ようやくイギリスもドイツのゼーノートディーンストの成功している成果を模倣してアメリカ陸軍航空軍と協力して救難活動を始めます。アメリカから来たオブザーバーもドイツのゼーノートディーンストを手本とします。
 この混成部隊は終戦までに1万4千名近くの救助活動を行い、その中の8千名は航空機搭乗員であったといわれています。
 

Cap 16.jpg
実際の救助の場面 
敵であろうが味方であろうが命が助かるのは嬉しいものです。


救助隊を攻撃し始めたイギリス

 さて、このようにドイツ海難救助部隊はその組織力を活かして北海を飛び回り、敵味方問わず救難者を救助しつづけます。
 しかし、こともあろうかイギリスは、これらの救助にあたっていたHe59などの救難飛行機を攻撃し始めます。これはスパイ活動や破壊工作員の本土上陸を恐れたからだとも。
イギリス航空省は、遭遇した如何なる敵救難機をも撃破すべしという旨の公示1254号を発布したのです。
 ドイツ側は、当然、救難機は「野戦救急車や病院船のような移動衛生部隊に対して交戦国は互いに尊重しあわねばならない」と取り決めているジュネーヴ条約の一環であるとしてこの命令に対して抗議します。
 しかし、イギリスのチャーチル首相は救難機はこの条約の想定外であり、該当しないとして異議を唱えます。そう、
チャーチル自身も「我々は再び飛来して我が市民に爆撃を加えるであろう敵パイロットを救助することを容認することはできなかった」と記しているのです。騎士道精神は既に過去のものとなっていたのです。

 1940年7月には、戦闘機のBf109と共に飛行していたことが原因で活動中の白色に塗装されたHe 59が撃墜され、搭乗員が捕虜となりました。彼ら救助隊に対する攻撃は増加していきます。武装をせず、
敵味方関係なく救助にあたっていた、彼らゼーノートディーンストたちはどうしたのでしょうか。
→続きます
ドルニエDo24.jpg
ドルニエDo24も使用されました

<参考文献/サイト>
→ゼーノートディーンスト(ウィキペディア)


ドイツ海難救助部隊の書籍のレビュー
→TAILS THROUGH TIME The Luftwaffe Seenotdienst(英語サイト)

 

こんな記事もどうぞ

来たよ(33)  コメント(5)  [編集]
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 33

コメント 5

ys_oota

イギリスもそんなことをしていたのですか。人間余裕がなくなると非道なことも平気でやるようになるのですね…。
by ys_oota (2017-08-30 01:23) 

駅員3

ドイツは素晴らしい活動をしていたのですね。
このお話は存じ上げませんでした。
それにしてもチャーチルは戦争犯罪人として裁かれてもおかしくない暴挙にでました!
by 駅員3 (2017-08-30 07:18) 

johncomeback

イメージと全く逆ですね。
イギリスは紳士の国と思ってましたが、
戦争は紳士をも狂わせてしまうんですね。
by johncomeback (2017-08-30 13:36) 

caveruna

着水したとしても、冷たい海水・・・って、
それだけで嫌だな。
ならばひとおもいに・・・(苦笑)
by caveruna (2017-08-30 13:44) 

ワンモア

☆ys_oota さま
 こんばんは〜イギリス、結構エゲツないですよ(;^ω^)
☆駅員3さま
 ドイツ側にも付け込まれるスキもあったようですが、バトル・オブ・ブリテンで窮地に立たされた恨みもあったと思います。勝てば官軍ですよね・・・。
☆johncomebackさま
 イギリスの二枚舌、三枚舌外交が戦後の中東の混乱の原因にもなってますからね。エゲツないと思います(;^ω^)
☆caverunaさま
 洋上で一人だけ彷徨うのって孤独で怖いですよね。US-2に助けられた辛坊治郎氏が色々と興味深いことを語っておりましたな。



by ワンモア (2017-08-30 23:24) 

Copyright © 1/144ヒコーキ工房 All Rights Reserved.

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。