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キ115「剣」は特攻機だったのか〜特攻兵器とは何か(その2)

中島戦闘機設計者の回想〜剣.jpg

 さて、前回の記事の続きになります。私の学校の格納庫に眠っていた特攻兵器と言われた「剣」。航空機設計者として、こんな悲しい自分の能力や才能の使い方があるのかと暗澹たる思いで見たものでした。
 しかし、数年後にとある航空機メーカー(旧富士重工)に就職した際に上司の一人からこんな話を聞きます。「剣?あぁ、あれは特攻兵器なんかじゃないよ。米軍の上陸作戦を阻止するための攻撃機が本来の姿なんだよ」と。
 その後、剣の設計主任であった青木
邦弘氏著作の『中島戦闘機設計者の回想』という書籍を読み、なるほどと思うことがあったのです。

戦争に間に合いそうにない高々度戦闘機キ-87

 著者の青木氏は「本機は一部の人がいうように、最初から特攻用として造った飛行機では決して無かった。いまごろになってこのような話を持ち出したのは、これも太平洋戦争を綴るささやかな歴史の一駒として、その真相を明らかにしておくことが、私の義務と感じ、老骨に鞭打って一筆執った次第である。」と冒頭に述べられています。

 
青木氏たちは、当時、三鷹の研究所にて最新鋭の中島キ-87試作高々度戦闘機の開発に携わっていました。この機体は当時の最新技術を導入し、B-29に対抗するため高度1万メートルでも充分な性能を発揮するための排気タービン過給器付きのハ-44エンジンを採用します。
 
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試作中のキ-87 大きな機首と排気タービンが異様な姿です。


 しかし、キ-87の開発は、新機軸のエンジンと、主脚の構造の動作不良に悩まされ、
B-29の本格的な襲来を受けて、これはとても戦争には間に合いそうにないということを青木氏たちは悟り始めます。
 ある日、近隣の防空戦闘隊の青年将校の訪問を受け、最前線では赤とんぼなどの練習機で特攻に行かされている噂を聞き、青木氏たちは、疾風や紫電改などの通常の戦闘機たちでさえ生産が間に合わないのに、いつ完成するか分からないキ-87の開発をこのまま続けて良いものか悩み始めます。これは、単に開発に名を借りて設計技術を楽しんでいるに過ぎないのではないかと。
akatonbo.jpg
”赤とんぼ”こと、九三式中間練習機

今の資材で戦争に間に合う軍用機を

 そこで、青木氏たちは考えます。キ-87の設計の方も大筋で終わっており、新しい仕事をするには今が良いチャンスです。三鷹の研究所はキ87の試作以外に仕事を持っておらず、生産ができないのであるならば、持ち時間からいって戦争に間に合うもの、できるものを開発できないか。キ-117[剣]の発想の原点はこんなところにありました。

 チームのメンバーはいずれも九七式戦、隼、鍾馗、疾風など歴代の戦闘機たちを専門に開発してきた集団です。今ある資材で速成できるか。彼らの出した機体仕様は以下の通りでした。

・風洞実験ができないので、今までの経験で行う。

・速度重視の小型機であること。空戦はできなくてよい。
・そのため、対戦闘機、対艦船には不向きであるため、輸送船団や上陸艇を攻撃目標とする。
・爆弾を放り込んで混乱させるだけでも効果がある。標準器も必要としない。
・降着装置を省略できれば、数ヶ月の時間と重量を大きく節約できる。
・そのため、爆弾倉の底の縁材をソリとして胴体着陸にする。
・エンジンは零戦や隼の栄エンジンが余っているはずなのでそれを流用する。
・胴体着陸で半壊するであろう胴体とエンジンは回収できること。
・軽量化した余力をすべて速度向上に振り向ける。

 設計に関する重要なポイントは簡素化です。設計を早く完了し、なおかつ実際の製作においてもできるだけ工数を減らす工夫をしなくてはなりません。戦闘機のような急機動をするわけではないので、荷重倍数も爆撃機並みの6に決定します。
 よく、着陸装置が投下式なので、片道攻撃専用の特攻機の理由とされていますが、こういう事情があったのです。そして胴体着陸はそれでも生存率が高い帰還方法でもありました(ドイツのMe163も投下式でソリで着陸。Ba349に至っては落下傘で脱出させる方式)。

 軍需省の倉庫に隼用旧型エンジンのハ115(栄21型)が400台余りほこりを被っているという知らせを聞き、エンジンはハ115に決まりました。このエンジンは一式戦「隼」Ⅱ型、零戦32型以降に搭載されていた主力級のエンジンです。
 
11024px-Normandy_Invasion.JPG
連合軍の揚陸風景。これらの中に飛び込んでいく作戦でした。

 すでに国内では工場などの被害が出始め、施設の
疎開が始まりだしました。情報伝達や交通の流れも混乱し始めてきたために、彼らはある程度自主的に行動するしかありませんでした。

 さて、エンジンが調達の目処が立てれば図面も完成できます。キ-115(剣)は、昭和20年の1月20日から試作開始。そして3月5日には早くも1号機が完成します。2ヶ月かからない驚異的な速度でした。図面作りには地元の学徒動員された少年たちの協力が大きかったとのこと。貴重なジュラルミンは使用せず、木材やブリキ板が多用されていました。1号機は無事に離陸します。
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『中島戦闘機設計者の回想』より

 
すでに試験飛行も済んだキ87や剣たちはここで青木氏たちの手を離れることになります。
 
三鷹の工場も爆撃を受け始め、青木氏たちは
4月に岩手へ疎開命令が下ります。この簡素な飛行機が
採用になるのかは青木氏たちには分かりません。この頃には、中島の本社からも軍からも疎開命令を最後にキ-87やキ-115に関する指示は全くこなくなりました。各地の空襲により、北海道、四国、九州などは孤立状態に達し、国としても方針が立てようがなくなっていたのです。

その後の「剣」はどうなったのか

 さて、青木氏たちが当時の資材、知恵を総動員して開発した「剣」はどうなったのでしょうか。
 「
剣」は省略・簡素化の極限を狙った飛行機でした。それが軍にとっては格好の特攻機に映ったのかもしれません。海軍でもこの機体を「藤花」と命名、特攻機として使用することに決めていたそうです。それは「桜花」「梅花」など、特攻専用機に命名される「花」を付けられたことからも分かります。

 
剣.jpg

 結果的には、キ-115は105機をもって生産を打ち切り、実戦には使われませんでした。
 その理由は、航空機としては、操縦するには不安定であり、各種の改修が必要であることなどが挙げられますが、
審査官には、これから先飛び立てる飛行機はすべて事実上の特攻機となることは分かっていたので、これ以上、若者たちをいたずらに死地に追いやるには忍びないという親心が強く働いたのではないかと青木氏は語られてます。
 「剣」は、甲乙丙の各タイプが計画されていたとのことですが、それはすでに疎開先に移った青木氏たちの知る所ではなかったとのこと。

設計者の苦悩

 この機体が特攻機として使われることを青木氏たちは当時は予想できなかったのでしょうか。それは容易に想像できたことと思われます。
 この点に関しては、試作機が完成し、初飛行の前に神主を呼んで安全祈願の祈祷をする習わしでのエピソードにも描かれています。
 神主があげた
祝詞のなかに「往きて還らざる奇しき器」とあったのです。働いている工員たちの間では、今まで作っていた隼や疾風に較べて、あまりにもみすぼらしいこの機体は特攻機であろうと噂されていたようです。祝詞をあげた神主はこの工場で働いていたために、この機体は特攻機であると思ったのではないかと推測されます。
 しかし、青木氏は、祝詞が終わった瞬間に前に出て「この機体は特攻機として造ったものではない、訂正をさせていただく」と抗議をした話が残されています。
 
jichinnsai.jpg

 後世発見された
キ-115乙機体説明書にも、
「本機は逼迫セル戦局下航空機生産量ノ低下ヲ補ハンガタメノ装備及構造ヲ出来得ル限リ簡素化ヲ以テ、従来ノ同型機種ニ比シ製作工数ヲ約1/5ニ低下セシムル如クセリ」とあり、また降着装置の項では「主脚ハ工作困難ナル引込式ヲ廃シ且性能低下ヲ来サザル如ク投下式トシ着陸は胴体着陸ニヨリ人命ノ全キヲ期ス」と記載されていました。

 青木氏の当時の記録の中にも
「速度の遅い旧式機では操縦者の生還は期し難い。ならば、せめてそれに代わる飛行機として本機を造る」と書かれていたそうです。眠っていたエンジンとはいえ、1,000馬力エンジンで500km/hの速度が出せる。当時としてはこれでも最高の贅沢品であったのです。

 航空機のデザインには必ず設計目的があります。
桜花のように完全に生還不能な人間爆弾として設計したのか、操縦者の生存を考えての設計なのか。両者の考え方はまったく異なります。
 特攻はあくまでも用兵上の問題で、隼や疾風を手がけてきた設計者たちとしては、桜花のような特攻兵器と同じ扱いにされたくないという思いもあったかもしれません。

 操縦者を道連れにする飛行機をデザインする。そこには何の救いもあったものではないでしょう。設計者である
彼らも、良心とか尊厳とか、救いを求めて自分を納得できる理由を探していたのかもしれません。

剣_02.jpg

「特攻に使われると想像しなかったのか」「結果を見れば生存は低い性能であり、特攻機と認めたくない言い訳に過ぎない。詭弁である」「なぜこんな機体を作ったか。ボイコットできなかったのか」「戦争に加担をしたのだから責められるべきだ」
 平和な時代に生きている人間が、結果だけをみて総合的にこのように批判をするは難しいことではありません。またそれも
間違っているとは思いません。ただ、己が当時の立場で同じことを言えるかというと疑問です。
 「この兵器は特攻機として使用する」と軍部に言われたたら断ることができたでしょうか。用兵に関して設計者は口出しできる立場ではないことは確かです。

 当時の雰囲気のなかで、全体の戦況がどうなっているのか、自分たちの造った兵器ははどのような使われ方を戦場でしているのか。断片的に、また意図的に操作された大本営発表の中で正確な知識を得るのは至難の業だったでしょう。
 青木氏たちは、当時の状況から飛行機屋として出来る限りの努力をしてみせた。そう思います。
 現代に残された、戦争遺跡から多くのことを私たちは学ばないといけない。そう思います。

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 こちらのサイトでは、青木氏の承諾を得て、書籍に掲載されていた内容の全文が掲載されております。
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/turugi1.html



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来たよ(31)  コメント(4)  [編集]
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コメント 4

johncomeback

じっくり拝読させていただきました。
レベルというかフェーズは全く違いますが、
エンジニアと上層部の思惑のズレは今もありますね。
by johncomeback (2017-09-24 21:58) 

ワンモア

☆johncomeback さま
 こんばんは〜稚拙な文章の記事にお付き合いくださいまして恐縮です。技術者とトップのズレの問題は今もありますよね(;^ω^) この問題って他人事ではないように思うのです。
by ワンモア (2017-09-24 22:12) 

ys_oota

使い捨て攻撃機とは、かなり斬新な発想だったのでは…。設計者が設計にこめた気持ちとは裏腹に、官僚の柔軟性のなさときたら。今も昔も官僚主義の弊害はなくならないですね。
by ys_oota (2017-09-24 23:07) 

ワンモア

☆ys_oota さま
 砂地に着陸させて、半壊でも回収できるように考えていたとのことです。でも実際には無理だったかもしれませんね。
by ワンモア (2017-09-25 23:54) 

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