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デアゴスティーニの60号は悲運の攻撃機「天山」

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デアゴスティーニの第60号は中島「天山」


 デアゴスティーニの60号は中島「天山」ですね。デアゴスティーニも予定ではあと20機。新しい機体ではフランスのMS.406とモスキートが判明していて、後は既存の機体のカラー違いですかね(デアゴスティーニ今後のラインナップ→デアゴスティーニWWⅡ傑作機の残りを予想してみる)。日本では後は人気の「月光」や九七式司令部偵察機、銀河くらいかもしれません。ドイツではMe163コメートかなぁ。さて、今回のこの機体を取り上げてみたいと思います。

優秀なれど武運なし。大戦末期の悲劇の攻撃機

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天山12型(ウィキペディア)

 もし、後継機の性能が、前任機より時速100km/hも早く、航続距離も1,000km以上も伸び、防御武装も倍になり、馬力も2倍近い能力を備えたものであるならば、これは申し分ない性能であるといえます。それが、九七式艦上攻撃機の後継機、「天山」でありました。
 その名も、佐賀を代表する山の名を冠し、そびえ立つ高さと、草原が広がる広さをも備えたこの山の名は、正に新型攻撃機の名に相応しいものであったといえます。

 初飛行は1941年の春。日本の真珠湾攻撃の半年前のことです。しかし、その開発は大馬力エンジン特有の難しさゆえに難を極め、実戦参加は1943年の7月。開発、試作、実用化と時間を費やしてしまい、戦場に出る頃には、すでに日本は守勢に回り、「玉砕」の語の使用が始まりだした年でした。制空権はすでに物量で勝るアメリカ軍のものであり、パイロットの損耗も激しい日本は質、量ともに劣勢に追い込まれていきます。
 
天山の開発が難航した理由ですが以下の点が上げられます。

・サイズは九七式艦攻とほぼ変わらないが馬力が2倍近くになってその制御に苦労した。(強力なトルク故に離陸中に機首が振られるという艦上機としては大きな問題)
・重量が増大したことにより着艦速度が増大。甲板上での離陸滑走距離も長くなる。
・着艦制動索の切断が多発→着艦速度が高いことが原因かと思われたが後に着艦フックの形状不良と判明。

 ようやく実現した1934年8月はすでに米軍の制空権下にあり、華々しい活躍は望めませんでした。加えて消耗の激しい搭乗員補充もままならず、その搭乗員たちの熟練度も大きく低下しており、未熟なパイロットたちの多くが命を落としました。

天山ブログ用.jpg
地上から離陸する艦載機・・・・。
この頃は空母も残っておりませんでした。

 生産機数は、約1,300機近くと、九七式艦上攻撃機の約1,400機とほぼ同数なのですが、この頃には操縦士たちの練度不足もあり、成果に比べて損失も膨大な数に上り、終戦時に残っていた天山はわずか200機にも満たない数でした。


 空母に乗せる艦上航空機の後継機の流れは、<戦闘機>零戦→烈風、<爆撃機>九九式艦爆→彗星、<攻撃機>九七式艦攻→天山という流れでしたが、上手く引き継いだとはいえない状況です。ちなみに用途別の後継機の流れはこんな感じ(クリックで拡大)。

艦上機の開発の流れ.jpg

 「流星」のように、初飛行から正式採用までの白い期間が長いのは、実用化が難航していたということです。「流星」艦爆と艦攻の両方の性質を備えた高性能な多任務機として開発されていたのも影響したのかもしれません。
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タグ:天山
来たよ(27)  コメント(3)  [編集]
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コメント 3

johncomeback

拙ブログへコメントありがとうございます。
北三陸の海は本当に綺麗ですね。浄土ヶ浜は瓦礫の山から復活し、
レストハウスも新設されましたが、観光客は依然より少ないように
見えました(-_-)
by johncomeback (2018-05-15 05:48) 

ys_oota

彗星が初飛行から採用までが短いのがびっくりです。全体のバランスが良い機体ということなんでしょうか。
by ys_oota (2018-05-15 17:01) 

ワンモア

☆johncomeback さま
 私も三陸の海が大好きです。そうですか、客足は少ない感じですか。
 また訪れてみたいです。
☆ys_ootaさま
 空技廠で開発されたので早かったのかもしれませんね。

by ワンモア (2018-05-20 09:45) 

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