第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の「つかの間の平和な時代」。航空機たちは驚異的な発展を遂げていました。布張りの機体から金属製の機体へ。複葉機から単葉機へ。より早く、より高く、遠くへと各国は競争するかのように飛行機の性能を伸ばしていきます。
そんな1935年から1940年頃にかけて、航空技術の先進国である欧米では「双発万能戦闘機」なるものの議論が盛んに行われ、実際に開発されていました。
当時のエンジンは、まだまだ非力で1,000馬力級のエンジンが実用化され始めたばかりです。ですので、爆撃機の援護で一緒に飛ぶにしても、1発のエンジンでは、それだけの燃料を積んで飛ぶ余裕がありません。
実際、支那事変で中国大陸へ深く侵攻した九六式陸上攻撃機も、護衛機なしで手痛い損害を被っています。
そこで考えられたのが、航続距離を伸ばすために燃料の搭載量を増やし、重量が増加した分、エンジンを双発にしてしまおうというアイデアです。
運動性は単発戦闘機には劣りますが、二基のエンジンによる大出力で単発機を上回る高速を狙います。武装はエンジンを積まなくなった機首に集中装備するかたちもできますし、カメラに変えれば偵察機にもなります。
更には高い出力と大きな機体により、搭載力が大きいことから爆撃機や攻撃機としても使うことも可能です。また航法装置や大型通信機も積載、複座として後部乗員を航法士・通信士とすることで嚮導機※や指揮機とすることもできる訳です。
※嚮導機(きょうどうき):空襲の際、最初に爆弾を投下して後続機に目標を示す先導機
結果、一機種で戦闘・爆撃・偵察・指揮など、何役もこなせる効率的な機体となるのです。
まさに万能、良いとこ尽くめ。
実際には、ドイツのメッサーシュミットBf110(運用開始1937年)やフランスのポテ631(運用開始1939年)、 イギリスのブリストルボーファイター(1939年初飛行)などの機体が続々と開発されていきました。
遅れてはならじと日本でも、キ45(1939年初飛行。後の屠龍)、十三試双発陸上戦闘機(1941初飛行。後の月光)などの開発が行われます。
いわば、大きな期待がかかったスーパールーキーたちという感じですね。
彼らは重武装であることから「重戦闘機」もしくは「駆逐機」と分類され、ヘルマン・ゲーリングなどは大いにこのBf110を持ち上げ、専用の航空団(ZG)も作り、優秀なパイロット候補生をBf110に回すなどしています。(イカロス出版『万能機列伝』1939〜1945より)
さて、それでは実際の活躍はどうだったのでしょうか。1937年にいち早く実戦に投入されたのは、メッサーシュミットBf110。一年前にデビューしたスーパー高速戦闘機、Bf109の弟分です。期待は否が応でもかかります。
ヨーロッパ侵攻作戦などの緒戦ではそれなりに活躍を見せ、いよいよ本番の大舞台である有名なバトル・オブ・ブリテンを迎えます。
今までの相手はいわば二軍級。今度の相手はハリケーンや最新鋭のスピットファイアです。制空戦闘機としての使命を達成できるのでしょうか。戦いの幕は切って落とされます。
しかし、結果は悪い意味で予想を遥かに上回るものでした・・・・。
それは惨敗中の惨敗。Bf110の航空団は、毎日のように損害を受け、わずか1日で一個航空団の全滅にも等しい30機もの損失も受けたことも。
重武装の双発戦闘機は、高起動で動きまわる単発戦闘機には太刀打ちできなかったのです。He111などの爆撃機の護衛を行い、迎撃戦闘機を制圧するという当初の目的は大失敗です。
あげくには爆撃機を護衛するはずだったBf110がさらにBf109に護衛してもらうという状況にまで追い込まれてしまいます。
結果、バトル・オブ・ブリテンの始めにあった実働237機のBf110は作戦終了時には、223機の損失を被ることになりました。ほとんど全機交換という損害率です。Bf110の制空戦闘機・長距離護衛戦闘機としての任務は完全に失敗に終わりました。
日本ではどうでしょうか。キ45を大幅に改造し、採用となったキ45改は、1942年に二式複座戦闘機「屠龍」として中国大陸の爆撃機の長距離援護の任務につきます。
相手はP-40トマホークなどのアメリカ陸軍義勇隊のフライングターガース。
この戦いで二式複戦は惨敗を喫しました。連戦連敗の事実は、二式複戦が敵の単発戦闘機とまともに戦えないということを示していました。まさにバトル・オブ・ブリテンでBf110の弱点が露呈したのと同じ状況です。
双発戦闘機は単発戦闘機との格闘では太刀打ちできず、護衛戦闘機としては役に立たないことがはっきりしたのです。
日本海軍は陸軍ほどの失敗はしませんでした。十三試双発陸上戦闘機(後の月光)は、同じ任務の零式艦上戦闘機が活躍し始めていたことから戦闘機としては不採用となり、偵察機として運用することを決定します。これは二式陸上偵察機と命名されました。
一見、良いとこどりの双発戦闘機は、実戦に投入する時期においては、より大馬力のエンジンの開発や後続距離を伸ばす落下式タンクの開発、燃費向上につながる可変ピッチプロペラなどの技術革新が行われ、必ずしも双発である必要もなくなりつつある時代になっていたのです。
特に零式艦上戦闘機のデビューは、双発戦闘機が特に求められていた、「爆撃機の護衛」という長距離援護の任務を単発戦闘機でカバーしてしまいました。
爆撃機と共に膨大な距離を乗員一人でついていって、しかも迎撃に上がってきた戦闘機を格闘で駆逐するという離れ業を行うのですから、双発戦闘機の出る幕はありません。(しかし、その代り防弾性能ゼロというハイリスク・ハイリターン機ではあったのですが)
唯一の成功例はP-38ライトニング(初飛行1939年)でしょうか。しかし、この戦闘機の本来の目的は長距離援護ではなく、高高度で進入してくる戦略爆撃機の迎撃にありました。「双発万能戦闘機」という論議からは外れたコンセプトの開発になります。
実際には日本ではそんな高高度で襲来する爆撃機は実用化できなくて、アメリカの杞憂に終わるのですが、双発のハイパワーや高高度任務にも適しているのでB-17などの長距離援護にも一役買って出ます。
しかし、このP-38も双発戦闘機の運動性の悪さから日本機とまともに空戦すると太刀打ちできません。実戦当初は、容易に撃墜できることから日本からは「ペロハチ」という悪名ももらうのですが、その機体性能に適した一撃離脱戦法を取るようになってからは「双胴の悪魔」という名前で恐れられるようになります。
P-38はP-51やP-47に長距離護衛任務を譲り、戦闘爆撃機や高速偵察機として活躍をしていきます。
こうして、双発戦闘機たちは、戦闘機としての任務を外され、戦闘爆撃機や偵察機、沿岸パトロールなどの任務に回されていきことになるのです。
なんでもこなせる万能機とは、そこそこ使える汎用機と紙一重でした。
やるせないのはパイロットたちでありましょう。戦闘機乗りとはパイロットたちの憧れです。戦闘機乗りは最後まで戦闘機乗りでありたいもの。爆撃機乗りとでは気質も全然違います。後方支援の任務や地上攻撃などは嫌がるのです。
かの有名な撃墜王エーリッヒ・ハルトマンもソ連抑留後、ドイツ連邦空軍の戦闘爆撃航空団の指揮官を命じられた時、「自分は戦闘機しか乗らない」と受諾を拒否しますから戦闘機乗りはあくまで戦闘機乗りなのです。
戦闘機もあくまで戦闘機でありたい。飛行機たちの願いがあるかどうかはわかりませんが、戦闘機としての失格の烙印を押された彼らの願いは思わぬ形で叶えられることになるのです。
→続く
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大変興味深く読ませていただきました。
続きに期待です(^^)ニコ
by johncomeback (2015-01-15 14:29)
1/48のP38に水中モーターをつけてお風呂で遊んだのが、ついこの前の事のように思い出しました(^^;;
by 駅員3 (2015-01-15 15:43)
★johncomebackさま
こんばんは〜。
次回はドラマチックな展開になります(^^
★駅員3さま
そ、それは斬新な遊び方ですね(^^
自由な発想って大好きです。
by ワンモア (2015-01-16 17:58)