1934年呉海兵団に航空兵として入団。当時から射撃の成績が抜群であった岩本航空兵は、1937年に支那事変に参加しました。この頃に日本軍最多撃墜の14機を公認されています。
太平洋戦争では、空母「瑞鶴」戦闘機隊所属で、真珠湾攻撃に参加します。しかし、直接の攻撃には参加せず上空直営の任務に就いていました。
その後はインド洋海戦→珊瑚海海戦→ラバウル方面へと戦い続けます。1944年にはトラック島撤退に伴い、253空に異動。激戦を繰り返しながら撃墜数を重ねていきます。
その後、252空に異動、台湾沖航空戦、フィリピン沖海戦にも参加し、最後は203空にて関東地区の迎撃戦に参加。そこで終戦を迎えます。こうしてみると、各線地を渡り歩きながら生き延びているのですごいですよね。
ただ、そんな歴戦の勇士も戦後は、北海道の開拓先で体調を崩し、1955年、戦後の復興の最中にあっけなく、この世を去ることになりました。享年38歳でした。
岩本徹三の撃墜数は、自己申告の202機の他、戦後調べでは80機とする文献もあります。日本海軍では1942年以降は、個人撃墜数は記録していないので正式な数は不明なのです。
実際のところはどうだったのか知りたいとことですね。岩本徹三、西沢広義、坂井三郎、杉田庄一、菅野直などなどのエースたちは、練度の高い米軍のパイロット相手でしたから、ドイツのエースたちと較べても、決して見劣りするものではなかったと思います。
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やはり、ゼロファイター…かっこいい!!
by 横 濱男 (2018-06-22 10:04)
霞ヶ浦、利根川って、広くて海と間違います(笑)
by caveruna (2018-06-22 18:02)
☆ 横 濱男 さま
ようやく、斜め後ろからのアングルで撮れました^^
日曜日じゃないとハンガーから出てきてくれないんです。
☆caverunaさま
そうなんですよ。磯の香りがしない点だけで判断してます(笑)
by ワンモア (2018-06-24 12:06)